ブックマーク / blog.goo.ne.jp/zf-phantom (2)

  • 《1》南京大虐殺の真相(要約版) - ZF

    最終更新:2018.11.24 検証が進むと共に一連の記事がかなりの量になってきたので、これひとつで全容が把握できる要約版として全面的に書き換えた。 《導出した試算結果》 考察による南京戦での中国側犠牲者数(=いわゆる戦没者数)の試算結果は次のように要約できる。 1)スマイス調査により、南京戦の都市部(城内+城門外)での市民犠牲者が3,400人。 2)同じくスマイス調査により、市民の拉致(=行方不明者)約4千人のうち、半数を戦没者として2千人。 3)国民党軍の規模は8~10万と諸説あるが、壊滅的敗戦であったから半数を戦没者として約5万人。(敗残兵処断を含む) 以上の3項目を合計して約5万5千人。そのうち、市民犠牲者が約5,400人。 なお、上記の数字は最初からそう決めつけていたわけではなく、以下および関連記事のように考察を積み上げた結果、そこに落ち着いたということである。 《探求のコンセ

    《1》南京大虐殺の真相(要約版) - ZF
    semimaru
    semimaru 2023/02/12
  • 《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ - ZF

    ・崇善堂の成立は古く、陥落直後の時点でも実在した。しかし、陥落後は南京特務機関に『昭和13年9月開設』と認識されてしまう程度に存在感が薄かった。 ・崇善堂の埋葬隊発足は陥落翌年の1938年1月中旬と思われる。東京裁判提出の埋葬記録(1937年12月26日〜)と矛盾している。 ・南京特務機関員・丸山進氏の話からすると、崇善堂埋葬隊の作業は紅卍字会の下請けとして従事した可能性が高い。崇善堂が自治委員会に出した書簡からも、上部組織の指示で動いていることが読み取れる。 ・崇善堂の膨大な埋葬作業は、日軍将兵、南京特務機関および宣撫班、日の記者、南京在留欧米人らになんら認識されていない。かろうじて、同盟通信・小山武夫記者が崇善堂を「葬儀屋」として記憶していた程度である。 ・これらの状況証拠からすると、崇善堂の来の埋葬数は下請けとして紅卍字会の埋葬記録に含まれているに過ぎなかったが、戦後の東京裁判

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    semimaru
    semimaru 2023/01/15
    三万くらい
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