静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫および松永碩は実弟であった。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した[2]。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。 1936年のベルリンオリンピックの日本代表に選出。8月4日の本大会1回戦、優勝候補のスウェーデン代表戦で、後半40分に相手ゴールキーパーの股下を抜く逆転ゴールを決め、のちに「ベルリンの奇跡」と称される勝利の立役者となった。 1937年、同校3年の時に陸軍に従軍して静岡の連隊に配属された。なお、その際に松永は「戦争には行きた