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オランダに関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

    島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。 寛永15年(1638)5月2日に 「一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/241 同年9月20日には 「一 伴天連門徒、累年御制禁たりと雖(いえど)も、断絶する無く、この度九州に於いて悪逆を企ておわんぬ。これによりいよいよ諸国これを相改む。彼の宗門これありて訴人致すやからは、たとい同宗なりとも、その咎を許され、公儀よりご褒美をくださるべき旨、これを仰せ出ださる。この趣を在国大名へ老中より奉

    島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    今のわが国は、政治家も官僚も近隣諸国に振り回されているのが現状だが、徳川幕府は、黄金時代を迎えていた強国オランダと強気で交渉し、長い間コントロール下に置いていたことはもっと広く知られるべきだと思う。
  • シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

    出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。 島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、カピタンのほか十数名のオランダ人が住んでいたのだが、閉じ込められていたという表現の方が正しいのかもしれない。 のちにオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開設して多くの弟子を育てたドイツ人のシーボルトが著した『日交通貿易史』というが、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されている。このの第7章に、オランダ人が平戸から出島に居住さ

    シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/02
    日本史の教科書や通史には、江戸時代の鎖国令以降、世界の銅相場を動かすほどわが国の貿易高が拡大したという史実がどこにも書かれていない。17世紀後半から18世紀前半までは、日本が世界第1位の銅生産国であった。
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