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  • 奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて

    東大寺戒壇院の四天王立像を見た後に、近鉄奈良駅から西大寺駅まで乗って、そこから歩いてすぐの「西大寺」に向かった。上の画像は「東門」だ。 西大寺の創建は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことから始まるのだが、造営当初の境内の広さは東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)と広大で、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院など110以上の堂宇が立ち並び、東の大寺(東大寺)に対する西の大寺に相応しい官大寺だったそうだ。 その後、平安時代に火災や台風で多くの堂塔が失われ衰退したのだが、鎌倉時代に叡尊(えいそん1201~1290)が荒廃していた西大寺の復興に努め、西大寺に現存する仏像、工芸品の多くはこの時期に制作されたものである。 室町時代の文亀2年(1502)の火災で、大きな被害を受け、現在の伽藍はすべ

    奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/07/12
    秋篠寺の境内の雑木林を抜けると国宝の本堂が建つ。この本堂の中に、かって作家・堀辰雄が「東洋のミューズ」と絶賛した伎芸天像がある。
  • 東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」

    新薬師寺の国宝仏像を鑑賞した後、続けて天平時代の国宝仏像が見たくなった。 東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。 上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに来る観光客はかなり少なかった。 「四天王立像」のことを書く前に、東大寺戒壇院の歴史をパンフレットの記事などを参考にまとめておく。 天平勝宝6年(754)に僧鑑真が来朝し、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて、聖武天皇をはじめ百官公卿四百人に戒を授けた記録があるが、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨により、東大寺戒壇院が造営されたそうだ。創建当初は金堂、講堂などが建てられていて、かなり大きな寺院

    東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」
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    shibayan1954 2018/07/12
    東大寺戒壇院は東大寺大仏殿から300m程度西側にある。ここを訪れる観光客はそれほど多くはないが、この戒壇院に、天平時代の最高傑作の仏像である国宝四天王立像が残されている。[東大寺戒壇院][四天王立像]
  • 国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて

    前回は白毫寺のことを書いたが、白毫寺から田園風景の残る静かな住宅地のなかの細い道を歩いて15分もすれば新薬師寺の南門に到着する。 門をくぐると国宝の堂が見えてくる。この建物は天平時代の建築で、新薬師寺創建当初の建物なのだそうだ。この堂の中に、国宝の仏像が12体も安置されているのだ。 古刹の一つの建物の中で、これだけ多くの国宝の仏像を間近に参拝できる場所はかなり少ないと思われる。 以前このブログで「東大寺三月堂」(国宝12体) の記事を書いたのだが、昨年5月に東大寺三月堂は須弥檀と仏像の修理が開始されて、今は国宝4体と重要文化財3体が安置されているだけだと思う。今年8月からは須弥檀の修理工事のために平成25年3月まで拝観停止となり、今年10月には日光菩薩像(国宝)、月光菩薩像(国宝)、弁財天像(重要文化財)、吉祥天像は(重要文化財)が、現在建築中の「東大寺ミュージアム」に移されることが決

    国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて
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    shibayan1954 2018/07/12
    天平時代の建築である国宝の新薬師寺本堂の中に、国宝の仏像が12体も安置されている。 古刹の一つの建物の中で、これだけ多くの国宝の仏像を間近に参拝できる場所はかなり少ないと思われる。
  • 奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方

    奈良は国宝や重要文化財の宝庫である。 平成16年のデータでは奈良県の国宝数は205で、東京、京都に次いで多く、全国の国宝の19%が奈良県にあることになる。また奈良県の国指定重要文化財の数は1377で、全国の11%だ。 www.bunka.go.jp/1hogo/excel/kokuho0430.xls しかし上のデータには美術館や博物館などが所蔵する美術品や書跡、古書などの数字がかなり含まれている。大きな博物館や美術館が多い東京や京都の数字が多いのは当然のことだ。博物館などでいくつもの文化財をまとめて見るのもいいが、できればガラスケースの中にあるのではなく、昔から安置されていた場所で、古いままの姿で、仏像ならば祈りの空間の中で鑑賞しながら、古き時代を偲びたいと考える人は少なくないだろう。 統計データを見ると、奈良県にはそういう場所がいくつかありそうだ。 博物館などでは絶対に所蔵できない「建

    奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
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    shibayan1954 2018/07/12
    パンフレットには何も書かれていないが、実は白毫寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺寸前になった寺なのだ。一時期は無住となり荒れるに任せた状態であったが、以前存在した多宝塔は何処に行ったのか。
  • 日露戦争後に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最近朝鮮事情』を読む

    前回の記事で、この時期に朝鮮半島を訪れたイザベラ・バードが、この国には内部からみずからを改革する能力がなく、外部からの改革が必要であると書いたことや、米国も英国も日露戦争の後で韓国に関与するつもりはなく、日が保護国とすることを希望していたことを書いた。 ではこの時期に朝鮮半島を訪れた日人の記録はないのだろうかと思って探してみると、当時衆議院議員であった荒川五郎氏が朝鮮半島を訪れてレポートした、『最近朝鮮事情』というが明治39年(1906)5月に出版されていることがわかった。 Kindle版も出ているが『国会図書館デジタルコレクション』に公開されているので、PCやタブレットがあれば誰でも無料で全文を読むことが可能だ。このに書かれている韓国の状況を現在と比較すると、この国が今も基的に変わっていないと思うところがあって興味深い。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndl

    日露戦争後に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最近朝鮮事情』を読む
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/29
    「彼等の事大根性というも、別に根底のある根性でも無く、ただ大国に頼って居れば自分の地位が安全であると云う所から、その時々の勢力ある、自分の都合のよいような方に頼るので、一定した主義では無い。」
  • 日露戦争の頃から日本軍に好意を示した韓国民衆がかなり存在した

    前回の記事で、わが国が日清戦争で勝利して清国勢力を朝鮮半島から追い出すと、今度はロシアが介入してきたのでわが国は日露戦争を戦って勝利し、ロシア勢力を朝鮮半島から排除したことを書いた。わが国は韓国を近代化させるために保護国化したのだが、その点について、アメリカやイギリスは干渉しなかったことは重要なポイントである。もしこのような大国の干渉があれば、今までと同様にこの国は強いと思った国に靡いていたことであろう。 日露戦争中の明治38年(1905)8月12日に、わが国はイギリスとの間で第二回日英同盟協約が締結されているが、その第三条で明確にイギリスはわが国の朝鮮半島保護国化をいち早く承認した。文中の「大不列顛國」とは、グレート・ブリテン国、すなわち英国のことである。 「第三條 日國ハ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルヲ以テ大不列顛國ハ日國カ該利益ヲ擁護増進セムカ爲正當且必

    日露戦争の頃から日本軍に好意を示した韓国民衆がかなり存在した
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/29
    わが国が日清・日露戦争で勝利し、ロシア勢力を朝鮮半島から排除したしたのち、わが国は韓国を近代化させるために保護国化したのだが、その点について英米両国ともこの国には関心がなく、わが国に干渉しなかった。
  • わが国はどういう経緯で朝鮮半島を統治することになったのか

    前回の記事で、第二次大戦後に韓国が、朝鮮半島に残したわが国の資産を没収したうえで巨額の賠償金を得ることを可能にするためには、わが国の統治がよほど酷かったという歴史を描いて交渉するしかなかったということを書いた。韓国は、戦勝国が描いた「日だけが悪かったとする歴史」に飛び付いたのだが、わが国を貶める目的で描かれた歴史叙述の殆んどは虚偽であり、鵜呑みすべきでないことは言うまでもない。 では実際の歴史はどうであったのかを振り返ることにしたい。 韓国では明治43年(1910)からはじまる日の朝鮮総督府時代のことを「日帝三十六年」と呼び、「韓国が有史以来、独立を失ったのは、後にも先にも日帝三十六年の時代だけで、それ以前はずっと独立・主権国家である」とよく主張するのだが、真実の歴史は李氏朝鮮は中国(清国)の属国にすぎず、独立国と呼べるものではなかった。 以前このブログで日清戦争のことを書いたのでこの

    わが国はどういう経緯で朝鮮半島を統治することになったのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/29
    1904年2月9日の日露戦争の仁川沖海戦で日本が勝利すると韓国は親日に一変して、2月23日に日韓議定書を締結。そのおかげで我国は朝鮮半島から満州へ軍を進めることが可能となり、日露戦争勝利の大きな要因となった。
  • なぜ韓国はいつまでたっても「反日」をやめられないのか

    前回の記事でわが国政府や民間企業が、朝鮮半島の近代化のために莫大な投資を行ってきたことを書いた。そして敗戦後、わが国はこれらの投資に対する一切の請求権を放棄させられた上に巨額の資金支援を要求されることになったのだが、普通に考えれば、戦勝国でもない韓国がわが国に対して賠償請求できるとは思えないし、また、わが国が朝鮮半島に残した資産の対価を一切請求できないということもおかしなことである。 わが国では、両国の交渉経緯についてはあまり知らされていない現状にあるのだが、その経緯に触れる前に、わが国と民間企業が朝鮮半島にどれくらい投資したのかをまとめておこう。 【日統治前のソウル 東大門通り】 次のURLに、GHQ資料などを基に産経新聞が試算した、昭和20年8月15日時点でわが国が朝鮮半島に残した資産の推定値が出ている。この記事ではこの記事では891.2億円で、平成13年時点での現在価値として16兆

    なぜ韓国はいつまでたっても「反日」をやめられないのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/29
    1950年の韓国の歳入規模は1ドルが360円として19億円程度。終戦時にわが国の朝鮮半島に残した資産が891.2億円程度あり、韓国はこの歳入規模では資産の対価ところか金利も支払えないことは明らかであった。
  • 日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国

    日露戦争ロシアに勝利した5年後の明治43年(1910)にわが国は韓国を併合したのだが、この経緯について一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日史』にはこのように記されている。 「日露戦争のおわりごろ、三民主義をとなえる孫文を指導者として、清朝打倒の革命をめざす中国同盟会が東京で発足したことに象徴されるように、それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。 しかし日は、列強の植民地政策をまねて、東アジアにおいて勢力拡大をはかった。日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約をむすんだ日は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。 韓国では、韓国軍の解放に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日に抵抗したが、日は軍隊を出動させて鎮圧した。1909(明治42)年には、前韓国総監伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家

    日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/29
    次のURLに当時の李氏朝鮮の写真が紹介されているが、このいくつかを見ればこの国がいかに貧しく、日韓併合後に近代都市に生まれ変わったことを瞬時に理解できる。 http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html
  • 貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯

    「スリーダイヤ」の三菱のマークを知らない日人はほとんどいないと思うのだが、戦後GHQが財閥解体を行うまでは、三井財閥・三菱財閥・住友財閥は三大財閥と呼ばれていた。 三大財閥のうち三井、住友の両家はそれぞれ300年以上の商家としての歴史があり富の蓄積があるのに対し、三菱は明治期の動乱期に、創業者の岩崎彌太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いたとされる。 三菱グループのホームページに『岩崎彌太郎物語』があり、そこには「土佐国、井ノ口村。貧しい村の貧しい家に生まれた。明治維新まで33年、1835(天保5)年のことである。」とある。 https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro01.html 教科書などでは「海運事業は政府の保護のもとに、岩崎彌太郎の創立した三菱会社を中心に発達した。」(『もういちど読む 山川日史』p.

    貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/29
    三井、住友はそれぞれ3百年以上の歴史があり富の蓄積があるのに対し、三菱は明治期の動乱期に創業者の岩崎彌太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いたが、なぜ貧家に生まれた岩崎にそれが可能であったのか。
  • 廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

    子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。 その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年(1872)69県、明治6年(1873)60県、明治8年(1875)59県、明治9年(1876)35県と合併が進められていったのだが、今度は面積が大きすぎたために地域間対立が起きるなどの問題が出て明治22年(1889)に3府43県となって落ち着くことになる。県の数が大幅に減るとなると、新しく出来た県の名前をどうするかで揉めることになることは誰でもわかる。 明治政府はどう

    廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/27
    廃藩置県後たる明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名は、皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名と錦の御旗に刃向かった大藩、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名のつけ方に差がつけられている。
  • 「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き

    前々回の記事で明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅したことに触れた。 2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は206千人に対し鳥取市の人口は193千人。経済規模を調べても松江市の市内総生産8541億円に対し鳥取市は6419億円であり、いずれにおいても松江市の方が優位にある。 では、明治の初めの頃はどうであったのか。 Wikipediaの『府藩県三治制下の日の人口統計』に明治維新から廃藩置県までの人口統計 が紹介されている。 https://ja.wikipedia.

    「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き
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    shibayan1954 2018/01/27
    鳥取県の中心となった 旧鳥取藩と、島根県の中心部となった旧松江藩とを比較すると、人口も石高も旧鳥取藩の方が格上だったのだが、明治9年に鳥取県が島根県に編入され「鳥取県」という名前が消滅してしまった。
  • 徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地

    前回まで、徳川の旧幕臣達が明治維新によって悲惨な生活を強いられていたことを書いてきた。確かに転業に失敗し没落した者が多かったのだが、彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかった。そこで、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が士族の中から現われた。 岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。 明治2年(1869)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は二人の旧幕臣の訪問を受けている。 この2人の人物は中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)といい、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護する任務(新番組:精鋭隊を改

    徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/23
    徳川の旧幕臣達は明治維新によって悲惨な生活を強いられ、転業に失敗して没落した者が多かったのだが、旧幕臣の中から、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物も現われた。
  • 徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」

    前回まで、幕臣の家に生まれた塚原渋柿園が記した『歴史の教訓』という書物の中から、徳川家と共に静岡に無禄移住した士族たちが悲惨な生活をした体験談を記した部分を紹介してきた。 塚原が記している通り、徳川の旧幕臣には明治政府に帰順して「朝臣」として働くか、士族の身分を捨てて農業や商業に従事するか、徳川家と共に静岡に移住するかの3つの選択肢が呈示されていたのだが、大多数が「無禄移住」という一番厳しい選択をしてしまったのである。 明治新政府の官吏の道を選んだ場合は収入などの条件は良く、べることに窮するようなことにはならなかっただろうが、やはり仲間を裏切るようなことはしたくないという思いの方が強かったのだろう。「朝臣」になった旧幕臣の割合は全体の「千分の1位(くらい)」だったそうで、千石以上の旗に何人かいたレベルだったという。 帰農した者もいたが、千石以上の知行取りが旧采地に引っ込むというケースに

    徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
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    shibayan1954 2018/01/23
    武士は利得に遠ざかることを理想とし、蓄財することは盗人であるとの考え方に染まっていた士族たちが多く、商売を始めても手許に資金が残ったらそれを単純に「儲け」と考えてしまう習性をすぐに矯正できなかった。
  • 静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし

    前回は、徳川家が駿府(静岡)に移封されることになり、徳川家とともに駿府に移住することを希望した誇り高き旧幕臣とその家族を乗せた米船は、奴隷を運搬するのと同様の方法で彼らを運んだことを書いた。劣悪な環境で二昼夜半帆船に揺られて清水港に着いたあとの彼等の生活はどんな具合であったのか興味を覚えて、引き続き塚原渋柿園の『五十年前』を読み進む。 たとえ無禄であっても徳川家をお供して駿府に移住(無禄移住)するという旧幕臣がかなりいたのだが、武士とはいえ収入がなくては生活が成り立たないことは言うまでもない。 塚原も無禄移住者の一人であったが、藩としても何も与えないわけにはいかなかったようで、わずかながら給料を支給していたようだ。塚原はこう記している。 「私の給料というものは、1ヶ月に1人半扶持に1両2分という取前だ。(部屋住だから当主の半減)かねての約束だから、私はその金1両で自分を賄って、残余の1人半

    静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/23
    塚原は東京にいた時は、敷地が400坪程度で部屋数が11間もあったのだが、静岡で住んだ家は、天井もなく6畳に2畳と台所があるだけの小さな古家だった。しかし徳川家家臣移住者の中では良い方だったという。
  • 江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船

    前回まで2回続けて、明治時代の士族の話を書いた。 菊池寛の著書『明治文明綺談』に、士族の中でも最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣であったと書かれていたので、具体的にその当時のことが書かれているを国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で探していると、『歴史の教訓』というが目にとまった。 著者の塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)は旧幕臣の家に生まれ、明治元年に徳川家と共に静岡藩に移住して藩士となりそこで悲惨な生活を体験し、のちに横浜毎日新聞に入社して新聞小説家として一世を風靡した人物である。渋柿園というのはペンネームで、名は靖(しずむ)であったという。 東亜堂書房の「縮刷名著叢書」の第18編として大正4年に出版されたこのの最初に、『五十年前』という作品が収められている。 その前書きの部分で塚原が、「維新の当時、――慶応3年の暮れから翌4年、すなわち明治元年にわたる江戸の変遷の有様を

    江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
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    shibayan1954 2018/01/22
    江戸城が無血開城されたのち、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認められ、800万石だった石高が91.3%も減封されて駿府に移封されることとなったが、3万人の徳川家家臣の半分が駿河移住を希望した。
  • 明治政府は士族をどう活用しようとしたのか

    前回は、明治維新のあとで士族の収入が激減した上に徴兵制が開始され、さらに廃刀令が実施されて、彼等の誇りや特権が剥ぎとられたばかりでなく、生活もままならなくなり、家財道具を売る者や、娘を売る者が出てきたことを書いた。 歴史書では「不平士族」という言葉で表現されているが、働く場所が奪われ、収入が9割以上カットされた上に、収入に12%もの新税を課せられては、士族が不平を持たないことのほうが余程不自然である。 また明治政府は、士族のうち家禄を自主的に奉還したものに対しては、起業資金を与える目的で年収の数年分の秩禄公債を与えたことが日史の教科書などに記されているが、「年収の数年分」といっても、士族の家禄が大幅にカットされたことを勘案すれば、藩に仕えていた時代の数か月分の収入程度の資金に過ぎなかったはずだ。 明治政府は、もしかすると、旧士族が反乱を起こすことぐらいのことは始めから覚悟の上ではなかった

    明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/22
    士族はインテリであって、その中には時勢をみるに敏なるものも少なくなかった。 五代友厚、中上川彦次郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一、安田善次郎、藤田伝三郎など武士出身者で経済界の重鎮になった人物が少なくない。
  • 明治維新と武士の没落

    明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。 そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし、諸藩の土地と人民を明治政府の所轄としたのだが、この段階では旧藩主がそのまま知藩事に留まっていたので、江戸時代と実態的には変わっていなかった。 次いで明治政府は、明治4年(1871)に藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣するという大改革を断行している(廃藩置県)。 さらに明治5年(1872)には、

    明治維新と武士の没落
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/22
    明治5年に発布された徴兵令で軍役の仕事を奪われ、次いで家禄が大幅に削減され、翌年には家禄に高率な税が課されて、40万8千戸、家族を合わせて190万人いたという士族の生活は致命的な窮乏に追い込まれた。
  • 刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

    前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。 藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。」とある。(岩波新書『刀狩り』p.119) 【豊臣秀吉】 では『喧嘩停止令』とはどんな法令なのだろうか。 秀吉が制定した『喧嘩停止令』は制定法の形では見つかっておらず、いつ成立したかなど詳細についてはわかっていないのだが、農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していたことは、当時の記録から確実であるという。注目すべきは、刀狩令が出る以前から、この法令の判例が存

    刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    天正十六年七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器が没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていた。刀狩令以前から農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していた。
  • 農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

    前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。 このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。 藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日史』の一節が紹介されている。 「日では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになって

    農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    戦国時代に農民たちは足軽として戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたが、このような争いを止めるためには、誰かが、より強力な武力を背景にして、相手を無力化させる施策が必要となる。