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キリシタンに関するshibayan1954のブックマーク (1)

  • 島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか

    前回の記事で、島原の乱は年貢の減免を求めて農民たちが蹶起したのではなかったことを書いた。乱を主導したのは小西行長の遺臣たちで、代官のもとに押しかけた農民たちは、自分達は元のキリシタンに戻ると宣言し、他の村々や周囲の人々にも、キリシタンに戻ることを迫り、寺社に放火し、僧侶や神官を殺害するなど、宗教色の強いものであった。 厳密に言うと、島原では慶長19年(1614)に松倉重政が入封し、以降のキリシタン弾圧により島原の乱が起こる10年近く前に住民はキリスト教を棄教していた。また、天草では関ヶ原の戦いの後、寺沢広高が領主となり、島原と同様にキリシタン弾圧が行なわれ、ずっと以前から住民はキリスト教を棄教していたのである。 ところが、彼らは島原の乱が起こる直前の短期間のうちにキリシタンに立ち返ったのだが、何がそのきっかけになったのであろうか。 この謎を解く鍵が、島原の乱が勃発する直前の10月13日付け

    島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    島原・天草で蜂起したキリシタン達が原城跡に籠城したということは、常識的に考えて、どこかの勢力の支援を待つということだ。江戸幕府は、島原の乱でポルトガルやスペインが援軍を差し向けることを警戒していた。
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