前回の記事で、帝国議会の開設を明治政府が宣言した後に自由党も立憲改進党も衰退に向かい、帝国議会開設に近づくと再び自由民権運動が動き出すのだが、明治政府は明治21年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させたことを書いた。立憲改進党はその後集団運営体制に移行し、党首を欠いたまま明治23年の帝国議会の開設を迎えることになったのだ。 しかし、この重要な時期になぜ、大隈重信は立憲改進党の仲間を裏切ってまでして、入閣したのだろうかと誰でも思うところだ。 菊池寛の『大衆明治史』には、入閣の経緯についてこう説明されている。 「寺島(宗則)、井上(馨)と相次いで失敗し、薩長の政治家中、もはや条約改正の難業を担当する人物は一人もいなくなってしまったのだ。 ここにおいて、衆目は往年の名外交家、大隈重信に集まり、大隈を除いてこの難業を成就する者はないということになったのである。 大隈は明治14年の政変で、