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中国大返しに関するshibayan1954のブックマーク (1)

  • 秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

    天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・糧を運びながら、なぜ、能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。 能寺の変は6月2日の朝だが、そもそも信長が死んだという情報が届かなければ秀吉は動けない。しかし秀吉が毛利と和睦したのは2日後の6月4日である。能寺の情報は6月3日か4日の未明時期には秀吉の手元に届いていたことになるのだが、この情報が届くのがそもそも早すぎるし、また毛利との交渉がまとまるのも早すぎ

    秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    秀吉の「中国大返し」。情報入手ののち毛利軍との和睦交渉をまとめたうえで、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわ​ずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思​う。
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