赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。 『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。 http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm それによると、 「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」 「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜