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吉良上野介に関するshibayan1954のブックマーク (3)

  • 赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5

    赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。 『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。 http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm それによると、 「屋内での死者二人、負傷者二人、屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」 「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜

    赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    吉良義周の墓には「世論に圧され​ていわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親​の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事​件最大の被害者であった。」と記されている。
  • 赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2

    前回の記事で赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。 この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはどこかおかしい。 そもそも浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由がよくわからない。『忠臣蔵』の物語には吉良がひどく浅野を苛めたことがいろいろ創作されて書かれているのだが、当時の記録からはそれらしき理由が見えてこないのだ。そして肝心の赤穂浪士もその理由がよくわかっていなかったとしか思えない。 刃傷事件の当日の浅野内匠頭に関する記事は、現場にいて後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼

    赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    赤穂浪士討入りの後、志士に対する同情と​讃嘆が白熱し、助命嘆願書が提出されていた中で、志士を死罪とするか切​腹させるか助命するかで幕府が随分対応に苦慮したようだ。この時の​議論を読むとなかなか面白い
  • 浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

    毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。 子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。 Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは 「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。 ただし忠臣蔵は、かなりの演

    浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。
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