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条約改正に関するshibayan1954のブックマーク (4)

  • 陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について

    引き続き条約改正に関する記事を続ける。 前回の記事に関する補足だが、わが国の悲願であった条約改正を成功させる寸前まで来た大隈重信の交渉を、振出しに戻した背景には何があったのだろうか。 早稲田大学名誉教授の木村時夫氏は『日における条約改正の経緯』のなかで、この背景についてこう解説しておられる。 「…当時の日国民は井上案と大隈案とを仔細に比較検討することをせず、外国人判事任用の一点だけを取上げ、それを国辱であるとした。 日の現状においては大隈案が最良であり、それによって改正が実現すれば、国家財政はいうまでもなく、国民の日常生活も向上し、また豊かになるという現実的利益を考えようとしなかった国権主義の陰に、具体的な国民の利益がかくされてしまったともいえよう。 反対運動が激しくなった他の理由に、政府部内における対立があった。それは大隈案によって条約改正が実現した場合、国民の間における大隈の声望

    陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/24
    わが国にとっては、日清戦争が始まる前に妥結目前の日英条約を成立させて日英関係を固めることが重要であった。 また、英国にとってもアジアで勢力を保つために、日本と手を組むとが国益に叶うと考えられていた。
  • 条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か

    前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日人乗客が全員溺死した事件を紹介した。 最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっただろう。そして、このような世論の高まりがなかったならば、明治政府は「条約改正」をなしえなかったのではないか。 いきなりたとえ話で恐縮だが、凧は強い風があれば高く上がるし、凧が高く上がっていれば強い風があることが分かる。政治家と世論との関係は凧と風との関係のようものではないか。強い世論の支援があってこそ、相手国に強く主張することが出来るし、風がなければ政治家は重たい外交交渉は難しいし、逆に相手か

    条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/24
    大隈重信は明治22年2月にメキシコと新条約の批准を完了し、同月米国との間に、新条約を結び、6月には日独条約を調印し、8月に日露条約を締結、と着々と成果をあげていったのだが、英国だけは特権を固執し反対した。
  • 英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件

    前回の記事で、わが国で「条約改正」の世論が盛り上がった背景に、わが国に阿片を持ち込んだ英商人が無罪とされたことや、コレラが流行していた清国からわが国へ直航してきたドイツ船・ヘスペリア号がわが国の検疫要請を無視し、横浜入港を強行した事件があったことを書いたが、もうひとつ国内世論を沸騰させた有名な事件があるので書き記しておきたい。 明治19年(1886)10月24日の夜、横浜港から神戸に向かっていたイギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、暴風雨に遭い紀州沖で座礁沈没し、ドレーク船長以下イギリス人水夫ほか乗組員26人は4隻の救命ボートに乗り移って全員脱出し、2隻は串に漂着。漂流していた2隻は、須江浦(和歌山県串町)の人々が9隻の鰹船を出して救出したという。 ところがその後、沈没したノルマントン号には25名の日人乗客がいて、全員が行方不明であることが判明した。「行方不明」という表現が使われるの

    英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/24
    明治19年10月24日の夜、英船籍のノルマントン号が暴風雨に遭い紀州沖で座礁沈没し、船長以下イギリス人水夫ほか乗組員は全員脱出したが、25名の日本人乗客とインド人火夫12人全員が行方不明であることが判明した。
  • 英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本

    前回の記事で、帝国議会の開設を明治政府が宣言した後に自由党も立憲改進党も衰退に向かい、帝国議会開設に近づくと再び自由民権運動が動き出すのだが、明治政府は明治21年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させたことを書いた。立憲改進党はその後集団運営体制に移行し、党首を欠いたまま明治23年の帝国議会の開設を迎えることになったのだ。 しかし、この重要な時期になぜ、大隈重信は立憲改進党の仲間を裏切ってまでして、入閣したのだろうかと誰でも思うところだ。 菊池寛の『大衆明治史』には、入閣の経緯についてこう説明されている。 「寺島(宗則)、井上(馨)と相次いで失敗し、薩長の政治家中、もはや条約改正の難業を担当する人物は一人もいなくなってしまったのだ。 ここにおいて、衆目は往年の名外交家、大隈重信に集まり、大隈を除いてこの難業を成就する者はないということになったのである。 大隈は明治14年の政変で、

    英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/24
    明治10年に英商人ジョン・ハートレーが生阿片20ポンドを密輸しようとして税関に見つかったが、領事裁判法廷ではイギリスの法令に違反せず無罪とした。明治12年には外国船の検疫が拒否され、コレラで多くの死者が出た。
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