戦国時代の英雄といえば、わが国が統一される足がかりを作った武将として織田信長の名前を挙げる人が多いだろう。信長は主要な戦いのほとんどで勝利を収め、なかでも、東海道の覇者・今川義元をわずかな兵でうち破った永禄3年(1560)の『桶狭間の戦い』は、信長の主要な戦果の一つとしてほとんどの教科書に記されている。 この戦いについては「『上洛』を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が迂回路を通って『奇襲』して倒した」と戦記物などで記されて、それが長い間日本人の常識とされてきたのだが、その『上洛戦』『迂回奇襲戦』であったとする説とは異なる説が最近では有力視されているという。 今川義元は駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める大大名で、背後にある甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と相互に婚姻関係を結んで相互不可侵を約し、いよいよ上洛を目指して動き出したとなどという内容が書かれている書物が多いのだが、最近では、義