このエントリーは長くなります。 ほぼ一年の読書(と音源聴取)生活の継続した一部をここで全部とは言わないまでもある程度片付けてしまおう、ということです。 またもや極私的な告白からはじめると、まず、現代詩というものが朗読されるものであることを永らく無視してきた覚えがあり、ビートニクスの朗読などは知ってはいたものの、日本の現代詩の詩人が朗読するという状況に立ち会ったこともなければ、なぜかそれをとてつもなく気恥ずかしいものであるかのようにもじぶんの観念を先入させてきたわけです。 詩のことばが「こえ」をともなって自分の像を結んだのは、先日の講演会での藤井貞和さんの朗読を聴いてから、なのでした。 藤井貞和さんには少なくとも3つの側面があって、それらは、 ①古代〜現代・聖俗・性別を様々な「こえ」をもって、言葉の実験としての(つまりルサンチマンではなく)現代詩を作り続ける詩人としての、それ。 ②また、和歌