ブックマーク / hukuroulaw.hatenablog.com (3)

  • 令和元年日本のマニフェスト――『天気の子』評註 - 人文学と法学、それとアニメーション。

    0 はじめに 忘却、象徴、祈りと解釈学 作は現代の日を舞台とするフィクションであるのみならず、現実の日の裏面を画面に克明に記録するとともに、象徴天皇制を持つ日に内在する制度的強制/忘却を如実に示している。 これは牽強付会として一蹴できる解釈ではない。 例えば、晴れ間を望んで「オカルト」や「神頼み」でも軽々しく手を出す人々は、中継までされた一人の少女(=晴れ女)が天に昇っていく同じ「夢」を見ても、何らの疑問も呵責も負わない。文字どおり一夜の夢のように、朝日とともに日常生活が始まるのと同時に忘れ去る。「ありがとう!」と彼らが手を合わせたのは基的には卑近な願い[1]のためであり、願いの裏でのしわ寄せが具体の他者に降りかかっても、それは自分のせいではないし、その帰結は「自分の知ったことではない(神のみぞ知る)」と嘯くだけであろう。忘却癖(あるいは「過ぎたこと」として儀礼に落とし込んでしま

    令和元年日本のマニフェスト――『天気の子』評註 - 人文学と法学、それとアニメーション。
  • どうか、もう迷わないように――藤本タツキ『ルックバック』評註 - 人文学と法学、それとアニメーション。

    藤本タツキ『ルックバック』が2021年7月19日午前0時に公開された。 内容といい、公開のタイミングといい、これは2年前の2019年7月18日に発生した京都アニメーション放火殺人事件を念頭に置いていることはほぼ間違いないだろう。 作の主題の一つは、作家論であろう。 「あなたは何のために描いてますか?(創作していますか?)」 それに対して藤本タツキはこう答える。 あなたが私の漫画を読んで、心から笑ってくれたから、と。 だから描き続ける(描き続けられる)のである。 ここには、もうひとつの主題系が潜んでいる。 それは、全く適法な自己の行為であるものの、その結果、大切な人を死に追いやってしまった人の、死との向き合い方、後悔との対峙の仕方である。 アニメ制作者には繊細な感性の持ち主が多いとよく言われる。仮にそうでないにしても、犯人の盗作の主張が全く無根拠の妄想であったとしてもなお、自身の作品が放火

    どうか、もう迷わないように――藤本タツキ『ルックバック』評註 - 人文学と法学、それとアニメーション。
  • 「承認」の位相――「かけがえのなさ」を巡る憲法と『クズの本懐』の管轄領域 - 人文学と法学、それとアニメーション。

    1 はじめに 横槍メンゴ『クズの懐』(スクウェア・エニックス、2013‐2018年)[1]の著名なセリフに、こんなセリフがある。 私たちは、付き合っている。 でも、お互いがお互いの、かけがえのある恋人。 (アニメ版PV) https://www.youtube.com/watch?v=iNBoRqmKJtM 他方、憲法学において、憲法13条の「個人として尊重される」とは、一人一人が「かけがえのない個人」として尊重される、という意味であると理解されてきた。(高橋和之『立憲主義と日国憲法 第5版』(有斐閣、2020年)159‐160頁は「特別犠牲を強制されない権利」という項目を持つ。なおこの点を近時の応用に押し出しているのが青井未帆で同「特別犠牲を強制されない権利」戸松秀典=野坂泰司『憲法訴訟の現状分析』(有斐閣、2012年)) 私がひっかかったのは、この同じシニフィアンで表される「かけが

    「承認」の位相――「かけがえのなさ」を巡る憲法と『クズの本懐』の管轄領域 - 人文学と法学、それとアニメーション。
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