ブックマーク / eiga-e.hatenablog.jp (17)

  • 『ドライブ・マイ・カー』(2021) - 映画へ

    Facebook に 2021/ 8/31 に投稿した記事に手を加えたものです。 濱口竜介監督作『ドライブ・マイ・カー』。登場人物たちの心の旅路をみごとな映像とドラマ演出で、清冽な緊張感を保ちながら見せきる3時間。 賞をとることが納得できる立派な映画で、芸術を嗜む老若男女に「今日はいい映画を観たなあ」と思わせるであろう充実作。それでいて野心的な冒険作でもあり、作り手がいかなる映画になるかを発見していく、大胆なチャレンジ精神もある。芝居の稽古が進んでいくところなど、どのように撮り、どのように撮らなかったのだろう。 もちろんタイトル通りの「車の映画」としても、車内シーンの撮り方の繊細な変化、たびたび出てくるロングの俯瞰が醸す場面ごとの違いに惹きつけられる。例えば冒頭近くの成田空港に向かうロングには明らかなサスペンスがあり、その後の展開にうまくつながっていく。 村上春樹の原作は未読なので、どの程

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  • 安川有果『Dressing Up』(2012) - 映画へ

    Facebook 内に 2015/ 9/ 5 に投稿した記事に手を加えたものです。 イメージフォーラムで、安川有果監督長編デビュー作品『Dressing Up』を観る。面白かった! 異邦人として田舎町にやってきた少女(四宮秀俊撮影による車が街に乗り入れる一連の優れたショットが印象的だ)。やがてそれは、災厄の使者の到着であったことが分かってくる。元凶は彼女の内なるデーモン、それが「無敵」ゆえ、より悲劇性が増すというのだから、まるで女子中学生版イーストウッド西部劇。 とはいえニッポンの「青春映画」の世界で、心の傷の問題を、親子関係や学校の環境といった要素を丁寧に外堀を埋めるように見せていくのだから。常識ある観客をおいてきぼりにしない真摯さ、誠実さは感じられる。 だが決してこの映画、マジメであることをエクスキューズにした文学的な自己中毒に陥らない。 映像と音響は生々しいまでに観客に向かって開かれ

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  • 高橋洋印の濃縮ジュース『ザ・ミソジニー』(2022) - 映画へ

    Facebook に 2022/ 7/24 に投稿した記事に手を加えたものです。 "カリコレ" で高橋洋監督作品『ザ・ミソジニー』を一足早く。劇作家でもある女優が自分の夫を略奪した女優を館に呼び寄せ、おぞましい母親殺しの実録芝居の稽古を始める。すぐに芝居と現実の境界線が崩れ始め、物語は想像を絶する方向に狂い始める…というもの。撮照に美術衣装と力の入った画面に、深い演技がもたらす格調をたっぷりと見せ、ときにはダイナミックな高揚も奏でる演出で繰り広げられる、いいおとなたちが何やってんのか分からない世界! ゾクゾクしました。筋は分からなくとも、共振はできる。むしろ不可解であるがゆえに引き込まれる。この感じ、高橋洋ファンには彼の世界炸裂と言って通じようが、むしろここまで洋印の濃縮ジュースだと知らないひとにこそ飲ませたい気もする。例えば「見てはいけなかった」「知ってはいけなかった」怪奇事件がワイドシ

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  • 『あのこは貴族』(2020) - 映画へ

    Facebook に 2021/ 4/13 に投稿した記事に手を加えたものです。 『あのこは貴族』を池袋シネ・リーブルで。 東京の裕福な家庭の娘、門脇麦と、地方出身で苦労する水原希子の、対照的なふたりの生き方を描く。ちなみにタイトルの「貴族」とは物の名家というより、「『あのこ』って『貴族』よね」と女ともだちに語られるようなニュアンスだ。すんごいお金持ちのお嬢さんよね…ということ。 開巻しばらく門脇の結婚相手探し(「こいつはねえだろ」という男と次々と会う感じがうまくユーモラスに描かれてる)から「運命の人」っぽい高良健吾との出会いと婚約までを描き、いきなり第二章に切り替わって、高良との関係を引きずる水原の話となる。 美しいヒロインふたりがなかなか自然な芝居で、演出とカメラは人物の表情を繊細に捉え、シーンごとの人物の位置関係の捌き方もうまいものだ。 門脇との関係で「雨男」を告白する高良が次に(

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  • 『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(2021) - 映画へ

    Facebook 内に 2022/ 1/29 に投稿した記事に手を加えたものです。 晴れた土曜だしオサレ映画を観てやろうと、ウェス・アンダーソン『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(21)へ。観終えたいまも、もちろんタイトルは覚えていない。『フレンチ・ディスパッチ(以下略)』で充分。 アメリカ生まれの名物編集長がフランスで発行し続けたという架空の雑誌の最終号を、そのまま映画化したという趣向。教養雑誌ぶってるのに、どこか東スポ的なセンセーショナルな嘘っぽさが混じるのがポイントだ。最初に雑誌と編集長の紹介および最終号になった経緯が語られ、自転車による市内紀行があったあと、3つの挿話が描かれる。天才囚人画家の話と、学生運動と記者の関わり、警察署長お抱えの名シェフの苦難。 いずれも工夫が凝らされて楽しいが、囚人画家のがいちばん気に入った。そういうひと、多いのでは

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  • 滑稽で哀しい残酷劇-『傷だらけの挽歌』(1971) - 映画へ

    Facebook 内に 2020/ 9/28 に投稿した記事に手を加えたものです。 ロバート・アルドリッチ『傷だらけの挽歌』を数十年ぶりにDVDで再見。 ハドリー・チェイスの有名な犯罪小説「ミス・ブランディッシの蘭」の二度目の映画化(※注1)で、大金持ちの令嬢誘拐をきっかけに破滅へと暴走するギャング一家の運命を描く。令嬢が一味の中でも特に異常性格者の若者と結ばれてしまうのがキモで、血まみれの残酷劇と極限状況下の恋愛劇の要素を併せ持つ特異な傑作といえる。 全篇を貫く暴力性・残虐さは強烈そのものだが、今回見直して、それらが滑稽さをもって描かれている印象を強く受けた。ラスト近くの銃撃戦などは、スラプスティック・コメディのようにも思える(音楽もちょっとそんな調子だ)。ギャングママの無茶苦茶さはグルーチョ・マルクス的狂気と言えるかも。だからこそ、対照的なその後の納屋の屋根裏での哀しみを帯びた叙情に胸

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  • 異常メロドラマ-『枯葉』(1956) - 映画へ

    Facebook 内に 2018/ 9/15 に投稿した記事に手を加えたものです。 アルドリッチ『枯葉』は異常メロドラマだった。ひとりの女性がバートと名乗る謎めいた男性と恋に落ちるがゆえにトラブルに巻き込まれ、苦悩しながらも戦いぬく様を "力強過ぎる" タッチで描く。 まず冒頭のいかにも映画の入り方らしい「〇〇という住宅地がありました」というショットから、鉛の重さの白黒画面で、美空ひばりを太ゴシック体の白人女性にしたような凄い顔のジョーン・クロフォードが力強くタイプを叩く。ここでもうツカミはOK。 いつもの話し相手の大家婆さんが家に入ってきて、新聞・マッチ・タバコといった小道具を手際よく活かしながら、自立しているが満たされぬオールド・ミスの主人公の人となりを伝える。セリフとシチュエーションによる説明をジョーンが表情演技で肉体化していく。大人のドラマを見る妙味。 彼女の孤独は他者の中で際立ち

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  • 活劇的に演出された英雄悲劇-『悪徳』(1955) - 映画へ

    Facebook 内に 2018/ 6/ 3 に投稿した記事に手を加えたものです。 『何がジェーンに起こったか』(1962)余波でロバート・アルドリッチ監督作品を DVD でもう一、『悪徳』。原題は "The Big Knife" とカッコイイ。 これが実に『ジェーン』と共通項の多い映画で、ハリウッド内幕モノというだけでなく、懐かしき昔、決定的な事件、そして何より自滅のドラマというのが鮮明に打ち出されている。 クリフォード・オデッツによる戯曲の映画化で、ほとんどが主人公邸宅の屋内で繰り広げられるなど非常に演劇的なのだが、そこはアルドリッチ。連続する登場人物の対決を、切れの良い芝居の動きとカッティングで、最後まで活劇的に見せ切る。そして対決が重なるたび、主人公の苦悩は強まり、自滅への道を明らかにするのだ。つまりこれは、一種の英雄悲劇である(英雄といっても主人公を賛美しているわけではなく、ギ

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  • 自滅願望の暴力-『何がジェーンに起こったか』(1962) - 映画へ

    Facebook 内に 2018/ 6/ 1 に投稿した記事に手を加えたものです。 アルドリッチ『何がジェーンに起こったか』は、ベティ・デイビスのジェーンとジョーン・クロフォードのブランチという見た目も強烈な二人が、姉妹間の憎悪を燃え上がらせる対決のドラマだが。タイトルに沿って、まずはジェーンの近親憎悪と自己破滅の話と見ることもできる。 この自己破滅の部分こそがミソで、ドラマを動かす原動力は、ジェーンの自滅願望なのだ。つまりは、子役の頃の栄光を失ったジェーンの長い長い自殺の話。いかにして自分が死にたいという願望を、あるいはそれを認めたくないことを、自分の近しいひとになすりつけるかが悲劇の連鎖を生む。もともとの自己愛が強いほど、その行動は極端なものとなる。これはシナリオ上の登場人物の行動原理を考える上で、大いに勉強になろう。 人を殺したり傷つけたりする人物は、自分自身が死の隣にいるのだ。 w

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  • 大所帯アイドルの原型-ゴールドウィン・ガールズ - 映画へ

    Facebook に 2021/11/ 6 に投稿した記事に手を加えたものです。 先の投稿で触れた『フーピー』(1930)は、バスビー・バークレー最初の映画、二色テクニカラーなど、映画史的に重要な作品だが。「ゴールドウィン・ガールズ」の-恐らく-初登場作という点でも、注目に値する。 冒頭のカウガールの群舞からインディアン娘たちのエロチックなファッション・ショーまで、いろんな場面で画面を彩る娘たち。その名の通り、大プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィン(MGM の "G" にあたる人物)肝いりのショーガール軍団だ。 元になったのは、ブロードウェイの興行師で舞台演出家のフローレンツ・ジーグフェルドのレビューで活躍した「ジーグフェルド・ガールズ」(※注1)。ここからはバーバラ・スタンウィックが出てきた。なお『フーピー』自体も原作はジーグフェルドの舞台で、映画版製作にも名を連ねている。主役のエ

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  • 『フーピー』(1930) - 映画へ

    Facebook 内のグループに 2021/11/ 4 に投稿した記事に手を加えたものです。 コメディアンとして人気を誇ったエディ・カンターのミュージカル・ウエスタン『フーピー』が全篇、YouTubeに上がっていた。 原題は "Whoopee!" で映画内では "ウーピー" と聞こえるが、児玉数夫著「西部劇総覧」(東都書房)によると『フーピー』の邦題で1932年に日公開されている。監督はフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースの名コンビを生んだ『空中レヴュー時代』(33)などのソーントン・フリーランド。 これが実に注目すべき点の多い作品で、まずこの年代にしてカラー作品。ごく初期の二色テクニカラーという方式らしく、プリントゴッコ(古い)の印刷のような人工的な色に味わいがある。 次に何といっても天才振付師で(振付けた舞踏シーンは自ら革新的な演出をしたという点で)映像作家でもあるバスビー・バ

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  • 『5つ数えれば君の夢』(2014) - 映画へ

    Facebook に 2014/ 3/23 に投稿した記事に手を加えたものです。 『5つ数えれば君の夢』を、ロードショーで観る。文化祭数日前から当日までの女子校を舞台に、東京女子流の全員(※注1)を主役格にした映画だ。 不動のセンター、新井ひとみは超然とした美少女。山邊未夢はひとりで園芸部をやっている引っ込み思案の娘。庄司芽生は子分を引き連れた学園の女王様。小西彩乃は芽生を愛し、尽くし続ける。中江友梨は優等生の委員長ながら兄を愛す背徳を抱えている。 それぞれに設定を作り込んでいて、ファンは興味深く観られるだろう(…って、俺もファンなんだが!)。 監督の山戸結希は、最近かなり注目を浴びている若手らしい。 実際-例えば-前半数十分にわたってずっとピアノのリフレインが鳴りやまないという、商業映画としては型破りな作り方の中で。少女たちの時間が音楽的に展開されていくのには圧倒される。 しかも単純に、

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  • 悪いことの後にいいことがある - 映画へ

    Facebook に 2013/12/25 に投稿した記事に手を加えたものです。 前にも書いたんだけど、映画で人を泣かせるのは意外と簡単なのだ。 もちろん中には、生理的に涙を流しにくい人もいるかも知れないけど、そういう人を泣かすのは笑わない王様を笑わすというのと同じで、別の問題である。 よく俺が挙げる例では、病床で子供が「ママ、ありがとう」とか言うと殆どの人は泣かせられる。子供・可哀想・健気と大三元を揃えただけで、俺だって自動的に涙が出るけど、泣いても気持ちよくはないし、ありがたくも何ともない。 それでは、 "気持ちよく泣ける" にパターンはないかというと。 そうでもなく、代表的なのに "悪いことのあとにいいことがある" というのがある。 例えばアルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』(1981)。仕事のために身体を売るという最悪の事態のあと。大祝祭となる試合入場シーンで、涙腺が決壊する

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  • 『ペコロスの母に会いに行く』(2013) - 映画へ

    Facebook に 2013/12/ 3 に投稿した記事に手を加えたものです。 森﨑東監督、待望の新作『ペコロスの母に会いに行く』をようやく観ることができた。原作は未読なので、実話を基にした認知症の母とその子を扱ったものとしか知らない。 始まってすぐに、いわゆる「森﨑映画」のイメージである群像劇ではないことに気づく。 不思議な関係の疑似家族も出てこないし、複数の人物があちこちにダイナミックに移動することもない。どこにでもある普通の日常を扱った映画として、家にいて、仕事に出かけて、飲み屋に寄ったりするばかりだ。 だがやがて、今回の映画では空間的・人物的な広がりにかわって、時間的な広がりがあることに気づく。通常の映画に回想が挟まれるスタイルを超えて、過去と現在が交錯して描かれるのだ。 もちろん、そのようなスタイルの映画も別に珍しいわけではない。 だが、ほとんどの映画で過去は失われたもの、現在

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  • 政治映画としてのマカロニ - 映画へ

    Facebook に 2020/ 9/ 2 に投稿した記事に手を加えたものです。 ジュリオ・クエスティ『情無用のジャンゴ』(1966)を、久々にDVDで再見。 セルジオ・コルブッチ『続・荒野の用心棒』(66)に始まるマカロニ・ウエスタンの伝説的キャラクター "ジャンゴ" ものの一で、残酷描写で有名な作品。爆発しない死と狂気がまんべんなく漂う悪夢的な雰囲気が独特で、トリップ・ムービーのようにも思える。 クライマックスで主人公は何もしないまま、炎の向こうの惨劇を目撃するばかり。この異様さは捨てがたい。 というわけで映画も良かったが、DVD特典のインタビューが興味深かった。主演のトーマス・ミリアンいわく、当時のスタッフはみんな共産党支持で批判的なミリアンと対立したという。共産党支持じゃなきゃファシスト呼ばわりまでされたとか。 そのため照明部に殺されかけたと言うんだけど、彼の話はいかにも「盛って

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  • 『散弾銃の男』(1961) - 映画へ

    Facebook に 2017/ 1/29 に投稿した記事に手を加えたものです。 チャンネルNECOで録画した『散弾銃(ショットガン)の男』(61)を観る。鈴木清順監督、二谷英明主演の山村西部劇。 見せ場の連続サービスを心がけたのだろうが、常に過剰な感じがあって落ち着かない(貶しているのではない)。酒場での群衆の動かし方も意図的に不自然で、そのくせ役者全員がやる気満々で男臭いマスゲームのようだ。割って入る楽師が妙にでかいアコーディオンを抱えていて、また異様。 そのアコーディオンを二谷がいつの間にか抱えている。流れ者だからギター程度にしときゃいいのに、そいつを鳴らして歌うのだ。このシーンの演出が妙に迫力があり、歌声に気づいたヒロイン芦川いづみが男たちをかきわけグイッと画面の前に出てくる。その思い詰めた顔のどアップ、二谷自身はなかなか映らない。やっと切り替えしたかと思うと、窓外の書割っぽい風景

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  • 『荒野の女たち』(1966) - 映画へ

    Facebook に 2022/ 9/11 に投稿した記事に手を加えたものです。 シネマヴェーラ渋谷のジョン・フォード特集で、『荒野の女たち』を観る。この巨匠監督の滅多に劇場にかからない遺作で、念願の初見だ。絶賛するひともいる一方、批判的な意見も多いので、どんなものかとある種のスリルを感じながら観たが、これはかなり衝撃的に素晴らしかった。 戦前の中国大陸を舞台に馬賊の襲撃に怯えながら暮らすキリスト教伝道施設の女たちを描いている。 主人公はそこにやってきたアン・バンクロフトだが、女医でありながらも行儀のいいインテリ女性ではない。むしろ『駅馬車』(39)のクレア・トレヴァーや『肉体』(33)のカレン・モーリー、『モガンボ』(53)のエヴァ・ガードナー同様に、世間ずれした気の強い-しかしどこか哀しい "玄人" の女という、フォード的ヒロインのひとつの典型に見える。 しかし、それだけではない。ヒー

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