孫太郎(まごたろう 旧字体:孫太郞、延享元年(1744年) - 文化4年(1807年))または孫七(まごしち)は、江戸時代の船乗り(水主)。 なお、本項の日付はすべて旧暦で記している。 生い立ちと漂流の経緯[編集] 孫太郎は延享元年(1744年)に福岡藩領筑前国志摩郡唐泊浦(現:福岡県福岡市西区宮浦)で生まれた[1]。 宝暦13年(1763年)10月6日、孫太郎は五カ浦廻船所属の伊勢丸(20人乗り 1600石)の乗組員として唐泊から大坂に向かった。伊勢丸は当時五カ浦廻船でも最大級の新造船であり、船頭は船主である青柳文八の息子である青柳十右衛門(重右衛門とも)がつとめていたが、十右衛門はまだ18歳であったため、船の指揮権は船親仁(甲板長)の仁兵衛と楫取(航海長)の新七が事実上握っていた[2]。 伊勢丸は福岡藩の藩米を大坂に輸送した後、豊前国中津(現:大分県中津市)に戻り年を越し、翌明和元年(