地方の名士となった「百人斬り」の両少尉 野田少尉の場合 向井少尉の場合 初めて語られた真相 ー 野田少尉の母校での講演 地方の名士となった「百人斬り」の両少尉 野田少尉の場合 「百人斬り競争」ですっかり有名になった向井・野田両少尉※は、その後もいわば「地方の名士」として、たびたび新聞に登場したり、地元で講演を依頼されたりするようになる。下は、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(1938年1月25日付)に掲載された野田少尉に関する記事である[1]。 ※ 向井・野田両氏の最終軍歴は少尉ではないが、ここでは「百人斬り競争」実行時の階級である「少尉」に統一して表記する。 二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願 さすがの“波平”も無茶苦茶 野田部隊長から朗信 南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立って、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶“百人斬り競争”に血しぶきとばして鎬しのぎを削った向井敏明、野田毅両