南京事件に関するskv101のブックマーク (24)

  • 戦争責任

  • 関連資料集

    南京事件・関連史料 これらは、南京事件・関連史料(歴史資料)集です、ご参考下さい。

  • 証言による南京戦史(1)〜(11)

    この史料(歴史資料)は、昭和57(1982)年夏に起きたマスコミによる教科書誤報事件によって一躍注目される事となった“南京大虐殺”が事実なのか?それとも一体何が真実なのか?という点に注目し旧陸軍士官出身者による親睦団体“偕行社(かいこうしゃ)”によって、元南京戦従軍者から聞き取り調査を行い機関紙に掲載されたものです。 今回、これらを公開致しています。さらに平成元(1989)年秋にはさらにこれらを発展させた基礎資料としての『南京戦史』(下写真)が刊行されています。

    skv101
    skv101 2009/08/06
    南京戦史は、畝本正巳氏(うねもとまさき:元防衛大学教授、南京戦当時独立軽装甲車隊小隊長)が機関紙「偕行」誌上に連載した「証言による南京戦史」
  • 本多勝一 編集委員紹介|週刊金曜日公式サイト

    skv101
    skv101 2009/07/30
    週刊金曜日編集委員。株式会社金曜日(週刊金曜日)の社長 佐高信は社民党びいき。
  • 本多勝一 - Wikipedia

    第12回菊池寛賞(1964年、のちに返却) 第11回JCJ賞(1968年) 第22回毎日出版文化賞(1968年) ボーン・上田記念国際記者賞(1969年) 第3回大同生命地域研究賞特別賞(1987年) 多 勝一(ほんだ かついち、1932年[† 1]1月28日 - )は、日の新聞記者・ジャーナリスト・作家[1]。元朝日新聞編集委員[1]。 経歴[編集] 長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる[1][† 2]。 長野県飯田高松高校卒。高校3年次の担任はのちに日古生物学会の会長を務めた鹿間時夫であった。同級に富永明夫がおり、後に多の義兄となった[3]。 多には脳性小児麻痺の妹がいた。父は雑貨商を営んでおり、多には薬科大学に進むことで薬局を加えた店の跡を継いでほしいと願っていた。多は高校で木原均の講演に感銘を受け、京都大学で遺伝学を学びたいと考えた[4]ため、父と衝突した。

  • YouTube - 国民党の捏造に依る南京大虐殺の証拠と云われている写真の数々 其ノ弐

  • Eternity資料室:世界の文化・歴史に関するレポート

    <テーゼ> 歴史とは、何者かが現象を解釈し、思想にまとめ、記録したものである。 思想とは、何者かが何かを思い描き、体系化したものである。 思想と思想の連なりが歴史を作り出すと言ってもよい。 歴史認識とは、誰がどのように思い描いたかを解釈することにある。 歴史は、思想に縛られる。 何故なら、人生観こそが歴史を作るからである。 <shupla 2006>

  • 「おさらい『歴史問題』は日本発」2-1(H19.3.21)

    「①南京事件、②教科書、③靖國神社、④慰安婦」

    「おさらい『歴史問題』は日本発」2-1(H19.3.21)
  • 田邊誠 - Wikipedia

    田邊 誠(田辺 誠、たなべ まこと、1922年〈大正11年〉2月25日 - 2015年〈平成27年〉7月2日)は、日政治家、実業家。位階は従三位。 衆議院議員(11期)、日社会党委員長(第11代)、裁判官弾劾裁判所裁判長(第61代)を歴任。 人物[編集] 老人福祉事業に従事していた田邊熊蔵の長男として群馬県前橋市に生まれる。旧制前橋中学(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制高校への進学を希望していたが、父が経営する養老院の運営がおもわしくなく、やむなく学費無料の逓信官吏練習所に進学した。 練習所卒業後、前橋郵便局に勤務した。1943年に応召し兵役に就いたが、軍隊内では熱心なクリスチャンであることを理由に酷いいじめにあったという[1]。復員後、前橋郵便局に復職。上司にも堂々と意見する態度を買われて労働組合の指導者に推され、以後、全逓信労働組合群馬地区委員長、群馬地方労組評議会議長を

    skv101
    skv101 2009/07/13
    浜田幸一によると田邊誠が1980年代に南京市を訪れた際に南京大虐殺紀念館を建設するよう求めたという
  • 本多勝一「南京大虐殺」/100人斬りの大嘘

    「忌まわしき過去の「ガセネタ」報道居直りの源流あり この頁は「ガス室」裁判原告人陳述書の関係部分抜粋です。 その1:特徴的な最近の事実の間 ●私宛てのファックス通信による被告・多勝一の「脅迫」行為 ●被告・多勝一の自称「南京大虐殺をめぐる論争」と件との関係 ●「南京事件調査研究会」に関する批判的私見 ●被告・多勝一が額に張り付けた二股、いや、三股、四股膏薬 被告・多勝一は、『週刊金曜日』発、私宛てのファックス通信によって、件訴訟の提訴以後、8か月弱を経た昨年の1997年12月5日の日付けで明らかに被告・多勝一の筆跡ではない手書きの追伸を書き加えた手紙(甲第31号証)を送り付けてきた。 この手紙の文章は、被告・多勝一特有の意味を限定しにくい悪文の典型であるが、その内、もっとも特徴的に、被告・多勝一の深層心理の状況を示す文句は、次の部分…… ⇒全文を読む その2:手品の種に

  • 毎日新聞が作り上げ、朝日新聞が蒸し返した“南京・百人斬り”報道…真実語った従軍記者・佐藤振壽氏 - news archives

    【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 南京の真実語った従軍記者 2008.9.27 03:42 ≪“百人斬り”報道を否定≫ 南京戦に従軍した元東京日日新聞(毎日)カメラマン、佐藤振壽(しんじゅ)氏が今月4日、95歳で死去した。佐藤氏は“百人斬(ぎ)り”の新聞記事の写真を撮影しながら、「記事は事実ではない」と言い続けた。神奈川県藤沢市で行われた通夜・葬儀には、百人斬りの冤罪(えんざい)で処刑された向井敏明少尉の次女、千恵子さん、百人斬り訴訟の弁護団長、高池勝彦弁護士、同訴訟を支援する会会長の阿羅健一氏らが参列し、佐藤氏をしのんだ。 問題の記事は、東京日日新聞の昭和12年12月13日付に「百人斬り“超記録”」「向井106-105野田」「両少尉さらに延長戦」という見出しで掲載された。 「【紫金山麓(さんろく)にて十二日浅海、鈴木両特派員発】南京入りまで“百人斬り競争”といふ珍競争をはじめた例の

    毎日新聞が作り上げ、朝日新聞が蒸し返した“南京・百人斬り”報道…真実語った従軍記者・佐藤振壽氏 - news archives
    skv101
    skv101 2009/07/13
    百人斬り 南京戦に従軍した元東京日日新聞(毎日)カメラマン、佐藤振壽氏(しんじゅ)
  • 向井敏明 - Wikipedia

    向井 敏明(むかい としあき、1912年6月3日 - 1948年1月28日)は、日の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。 山口県出身。日中戦争に参加、南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」[1]の容疑者として逮捕され、南京にて処刑された。 略歴[編集] 1933年(昭和8年)12月 1日 任歩兵予備少尉。 1936年(昭和11年)3月31日 任歩兵少尉(特別志願士官)。 9月 1日、補 歩兵第9聯隊附。 1937年(昭和12年) 11月13日、所属する第16師団は揚子江下流に上陸。向井の身分は第16師団歩兵第9聯隊第3大隊第3歩兵砲小隊の小隊長。所属部隊は南京へ敗走する中国軍を追撃。 11月29日、常州の無錫郊外で東京日日新聞の浅海記者及び佐藤カメラマンと会い、向井少尉と百人斬りの競争をしていると話したとされる。 11月30日、東京日日新聞と大阪毎日新聞によって野田毅少尉と行わ

    向井敏明 - Wikipedia
    skv101
    skv101 2009/07/13
    (むかい としあき、1912年6月3日 - 1948年1月28日)は、日本陸軍の軍人。山口県出身。 敗戦時の階級は陸軍少佐。日中戦争に参加、南京攻略戦の際に実行した「百人斬り競争」の容疑者として逮捕され、南京にて処刑された
  • 野田毅 (陸軍軍人) - Wikipedia

    野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 略歴[編集] 鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。 1937年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われた「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。この時の模様は、火野葦平『海と兵隊』『広東進軍抄』に描写されている。 1939年5月19日、『東京日日新聞』によって向井中尉は戦死した野田中尉との約束である五百人斬りの約束を実行

    野田毅 (陸軍軍人) - Wikipedia
    skv101
    skv101 2009/07/13
    (のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本陸軍の軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実行した「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕、南京にて死刑に処される。
  • 松井石根 - Wikipedia

    松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者[1]として、「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯[2])を受け、処刑された。 生涯[編集] 出自[編集] 愛知県愛知郡牧野村(現・名古屋市中村区牧野町)出身[要出典]。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。 在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるの

    松井石根 - Wikipedia
  • 深田匠 - Wikipedia

    深田 匠(ふかだ たくみ、1966年[1] - )は、日の著作家、政治学者[1]。国際政治学の分野を主とする。 人物・活動[編集] 京都府京都市出身、同志社大学法学部政治学科卒業[1]。歴史学者の田中正明に師事して保守思想や近現代史を学ぶ。田中の門下生総代[2]。 平成16年発行の著書『日人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』(高木書房刊)が、amazon.co.jpの書籍売上ランキングで総合13位(国際情勢ジャンル1位)を記録するベストセラーになった[2]。 一般社団法人JCU国際戦略研究部長。大国総合研究所代表。田中正明門下生全国連絡会議議長[2]。日会議運営委員[3]。 著書[編集] 単著[編集] 『暁か黄昏か』 展転社、2003年 ISBN 4-88656-235-3 『日人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』 高木書房、2004年 ISBN 4-88471-066

  • http://www.history.gr.jp/~nanking/

  • 南京事件と蒋介石 - news archives

    「興亜観音を守る会」の会長であり、「南京事件」の研究家として知られている田中正明氏は、1960年、岸内閣の時に締結された日米安全保障条約を積極的に支援し、岸首相のいわば私的ブレーンのような役割を担った方である。 その田中氏が岸首相から「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。これから台湾に行って蒋介石とも会い、台湾の軍事基地も見学して、将来のアジアの平和について考えてほしい。蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」と言われ、台湾を訪問したが、紹介状のおかげで、準国賓級の待遇で迎えられた。 そして最後の蒋介石総統との会見の席上、何應欣将軍を初め多くの政府要人が同席している中で、蒋介石総統が悔恨の涙を流したという。 一週間後、台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれた時だ。 最後に田中氏が、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後、「私は昭和16年(1936

    南京事件と蒋介石 - news archives
    skv101
    skv101 2009/07/11
    南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずですと蒋介石が田中正明氏に話したという。それを証明する何か無いのか?
  •  「南京虐殺」記述について

    skv101
    skv101 2009/07/11
    南京事件が日本の教科書でどのように書かれているか。中国側の主張が受け入れらた教科書に仕上がってる。これでいいの?敗戦国だから仕方ない?
  • 東中野修道 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "東中野修道" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 1971年 鹿児島大学法文学部文学科西洋史学専攻卒業 1977年 大阪大学大学院文学研究科西洋史学専攻博士課程中退 1979年 亜細亜大学教養部助手 1980年 亜細亜大学教養部講師 1983年 亜細亜大学教養部助教授 1985年 米国西ワシントン大学客員教授(日思想史) 1988年 旧西ドイツハンブルク大学客員研究員 1994年 亜細亜大学教養部教授 2001年 亜細亜大学法学部法律学科教授(政治思想史、日思想史) 2010年 亜細亜大学大学院法学研究科委員

    skv101
    skv101 2009/07/11
    日本の歴史研究者・著述家。亜細亜大学教授
  • YouTube - 1/2 南京事件またニセ写真