戦闘・戦役に関するsmtz8のブックマーク (2)

  • 阿部中将戦死後の日本軍独立混成第2旅団撤退 - 15年戦争史

    前回の続き 1939年11月7日、太行山脈中の黄土嶺附近で八路軍に包囲された独立混成第2旅団の討伐隊は、指揮官であった阿部中将を戦死という形で失った。 しかし、包囲は尚も続き日軍討伐隊は危機的状況にあった。 これを救援するため、日軍は独立混成第2旅団の残部と第26師団、第110師団に黄土嶺への急行を命じた。 これに対し、八路軍は各県の遊撃隊に日軍増援部隊に対する牽制を命じ救援部隊の遅延を計る。 11月8日、包囲された日軍討伐隊残存部隊は航空機の支援を受けつつ上庄子西北方の第1団、第25団の一部に攻撃を集中。日軍約400人が包囲網を突破、司各庄方向へと撤退して行った。 包囲していた八路軍第2団、第3団が追撃し、さらに激戦が展開したが、日軍の増援が近づく中、これ以上の戦闘継続は不利と判断し、八路軍は撤退した。 なお、黄土嶺の戦闘では賀竜の第120師からも特務団が包囲に参加している。

    阿部中将戦死後の日本軍独立混成第2旅団撤退 - 15年戦争史
  • 阿部規秀中将の戦死 - 15年戦争史

    駐蒙軍に所属する独立混成第2旅団の旅団長・阿部規秀中将の戦死は1939年11月7日のことである。 場所は、中国河北省と山西省の境にある保定市淶源県(淶はサンズイに「来」)の黄土嶺。淶源県は北京から山西省省都・太原に続く街道上の山西省に入る手前にある。河北省と山西省の境には太行山脈が横たわり、自然の境界をなしている。 日中戦争において、日軍は1937年中に河北省・山西省ともに制圧・占領したが、都市と街道・鉄道沿線の支配に留まり、主要沿線から外れた山地などの辺境区までは支配できなかった。 山西省戦役で日軍は中国軍の戦線を打ち破り省都・太原を占領したが、その際に敗れた中国軍の一部は日軍の戦線後方に取り残されることとなった。 取り残された中国軍部隊は、主要街道沿線から外れた山間部の村などに下がり、ここから日軍戦線後方での遊撃戦を展開する。 もとより山西省戦役で戦った中国軍の多くは閻錫山の率

    阿部規秀中将の戦死 - 15年戦争史
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