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Blogに関するsnowstepのブックマーク (4)

  • まるごと青森 : サムライ・チャンバラ博覧会~武の実像と虚像

    青森の観光・物産・・特選素材など「まるごと青森」をご紹介するブログ(blog)です青森県立郷土館は、1931年に第五十九国立銀行青森支店として建設された建物。 斜陽館(五所川原市金木)や第五十九銀行館(弘前市)の設計者である堀江佐吉の七男堀江幸治による設計で、青森空襲も免れ、長い間、青森市の金融の中心を担っていた建物です。 レリーフが施された円柱や回廊など、銀行時代の名残が見てとれるこの建物は、国の登録有形文化財になっています。 現在では郷土館として地元の方々に親しまれていて、当時、美術館がなかった青森県では、1973年9月の開館以来、展覧会を開催するなど、芸術観賞の場としても使われてきました。 そんな歴史ある元銀行の営業店舗のスペースでは、硬派なのにおもしろい展覧会が開催されています。 その名も『サムライ・チャンバラ博覧会~武の実像と虚像』。 江戸時代以降の刀などの武

  • 『はじめまして!』

    はじめまして。 日から、新海誠監督最新作の制作日誌ブログ、スタートします。 2007年公開の「秒速5センチメートル」に続く新海監督の最新作について、 昨年末に監督のホームページで、 新作に取りかかっている報告をご覧になった方もいらっしゃると思いますが、 当ブログはその最新作の公式ブログです。 制作日誌ということでそのまんまですが、 制作の状況や現場の様子などなどお伝えしていきます。 と、綴っていますのは、 制作日誌管理人その1、キノコです。 中学の卒業アルバムに、 「もっと愛想よくしたほうがいいよ」と書かれたことがあります。 お前は難しい、と言われるのはいつものことです。 監督にはツンデレのツンしかない、デレがない、と何度か言われました。 という不安要素いっぱい(笑)の管理人その1ですが、 みなさまが作品を楽しみにしながら読んでもらえることを、 がんばってお伝えしていこうと思いますので、

    『はじめまして!』
    snowstep
    snowstep 2014/07/27
    “彼女はその映画の筋や役者をひとしきり褒めた後、こう言いました。 「でもこの映画は、私の人生を変えてくれる一本じゃなかった」”
  • HIGHLAND VIEW 【ハイランドビュー】

    長くブログをやっていると、たまに有益で面白いコメントを頂けて当にありがたい。 何年も前に書いた記事にも、先日(半年ぐらい前の先日)、大変興味深いコメントを頂いた。 まず記事は以下のもの。 アムロはシャアを、いつニュータイプだと認識したのか?<TV版『機動戦士ガンダム』での相互不理解と「貧しい愛」> https://highlandview.blog.fc2.com/blog-entry-247.html 「シャアってニュータイプなの?」という、友人の素朴な疑問を発端に、タイトル通り「アムロがどのタイミングで、シャアをニュータイプとして認識したのか?」を検証した記事です。 そしてこの記事に頂いたコメント。全文を以下に引用します。 キシリア撃つ前の妹への 「ザビ家の人間はやはり許せないとわかった」 という”お前ついさっきまでと違うこといきなり言ってるの?何?”感ある台詞がなくなって 劇場版で

    snowstep
    snowstep 2014/04/28
    “『ウィッチクラフトワークス』は、「街ひとつのスケールを舞台にしつつ、登場人物が全員ボンクラ」という楽しい作品でした。” こくこくと肯く。
  • 人気のなかった『ガンダム』 | ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ

    『機動戦士ガンダム』は放映当時、まったく人気がなかった。 来スポンサーがターゲットにしているはずの小学生男子には、ほとんど知られていなかったのである。 また東京地方では土曜日の夕方に放映していたので、当時の小学生男子には視聴することが困難だったこともあるだろう。 俺はまさしくその小学生男子だったわけだが、土曜日の夕方といえば外で遊んでいるわけだ。まさか友達に「TVマンガ観るから帰るわ」とはいえない。 だから俺の『ガンダム放送視聴体験は、「雨の日」と「日暮れがはやくなった晩秋」以降に限られるのだった(笑)。 放送も終わり、年末のクソ寒いなか、荏原町のプラモ屋をひやかしにいったら、奇妙な張り紙をみた。 ガンダムとシャアザク、発売決定、といった内容の張り紙である。 当時小学生男子の間では、アメリカテレビドラマ『コンバット』の影響で、ちょっとしたミリタリーブームだった。 宇宙戦艦ヤマトと

    snowstep
    snowstep 2014/03/24
    “『ガンダム』はスポンサーレベルでは「失敗作」だったし、その「失敗作」の烙印を、きちんと引き受けて背負ってきたのは、富野監督ただひとりだった”
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