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ブックマーク / lovelovedog.hatenadiary.org (7)

  • ジャンル・媒体に対する「愛」をもってつまらなさを語る - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    ぼく自身にはなかなか、ジャンルあるいは媒体に対する「愛」がないので、「愛」の裏返しである「憎悪」というか罵倒・貶しテキストがうまく書けないのですが、世の中にはそういうのがたくみな人がいたりするので、ついブックマークしてしまうのです。 こんなのとか →映画評論家緊張日記: 未来予想図 (2007) こんなのとかは、 →マンガソムリエ煉獄編:当にひでえマンガ、あるいはリアルさるまん「アガペ」 映画漫画に対する愛がなければ難しいテキストだと思った。 また、評価の対象になっている創造物が、ある種の低レベルクオリティ(という言いかたも変だな)でなければ難しい芸でもあるわけで、万人に貶される映画がなぜ世に出てしまったのか、みたいな背後関係にはちょっと興味を持つのだった。小説漫画音楽などではあんまりそういう例はないですね。アニメならあるのかな、「なぜこのようなものが人の目に触れるようなことになっ

    ジャンル・媒体に対する「愛」をもってつまらなさを語る - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
    soorce
    soorce 2008/04/19
    >昔から、~、20本ぐらいあるうち<>ジャンプの漫画より面白くなかった<少年漫画か週刊漫画誌を全部読んでるから「面白くない≒つまらない」って書けるんだよね?って直接比較なら違うのか?20って数字は何時よ
  • たいていの本はつまらないので、あなたががそのジャンルの本全部読んだ上で「つまらない」と、ある本を言うんだったら認めてやるよ - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    まだこんなことを言っている人がいたので気になった。 →当にサイト読者のことを考えるなら「つまらない」と書くべき - あの頃の僕らは胸を痛めてブギーポップなんて読んでた 「合理的」ということであれば、つまらないは「つまらない」と書くべきだ。サイト読者がそのサイトで勧められたしか買わないのないのならともかく、ほとんどの人はそうではないだろう。そのサイトのオススメプラス自分で探したを買う。 世の中に流通しているたいていのは、つまらない、以前にどうでもいい、なので、ある特定ジャンルのに限定して面白い・つまらないを語るなら、そのジャンルに属するを全部読んでから言うべきだと思う。 ライトノベルなら、市場にライトノベルとして出版されているを全部読んでみるとか。 そんなことはできないって? 格推理ファンやSFファンはみんなやってるぞ。少なくとも、ぼくの知っている人たちは。 あるジャンル

    たいていの本はつまらないので、あなたががそのジャンルの本全部読んだ上で「つまらない」と、ある本を言うんだったら認めてやるよ - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
    soorce
    soorce 2008/04/18
    >SFファンはみんな<すごいなー。'20代のPM以前からラノベのSFまで全部かー。私はもうSFファン名乗れないやー。/その人の考える「全部」だろうけど、「全部読んでる」って自称する人居るんだ。流石一ツ橋グループ。
  • アニメ----破綻したビジネスモデル - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    もうここ10年ぐらい、アニメ産業というのは破綻しているような気がする。アニメ売って儲ける、というDVD販売以外のキャラクター商売展開って、「ポケモン」「ドラえもん」「ケロロ」、それに一連の東映動画アニメ以外にはほとんど見たことがない。まぁアキバとかにはフィギュアがちょこっとあるかな。それぐらい。文房具とか菓子とか日常のグッズなどに漫画(アニメ)の絵が入ったものはほんと少ない。ショウワのハルヒノートなんて出てないでしょ。テレビのアニメのCMも、関係者の音楽とか雑誌宣伝とか、そんなのばっか。一般社会で普通にモノ売っている企業(トヨタとかJALとかですね)は、滅多にアニメのスポンサーにはならない。漫画雑誌と同じく、広告媒体としては「下流」のものに思われているんだろうな。放映時間も深夜だし。夜9〜12時に放映されるアニメなんて滅多にない。漫画が原作の実写ドラマはあったりすることもあるのに。 アニメ

    アニメ----破綻したビジネスモデル - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
    soorce
    soorce 2007/10/14
    それなんてタイムボカンシリーズ?ということだけど、そのメインスポンサーは玩具を売るタカトク・クローバーだったし、笹川ひろしは手塚治虫の最初の専属アシスタントだったし。
  • がんもどきの作り方 - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    ぼくは落語の「寝床」で知ったんですが、 →「寝床」 親戚に年会の法事がございまして。がんもどきと生揚げを三束と六十という注文なんでございます。生揚げってえものは水をきって揚げりゃあいいんですが、がんもどきてえと中入れるかやくが多うございますからな。ごぼう、しそ、人参、はす、ごまなんぞをいれます。噛んでるうちにごまがぷつってえと感じのいいもんでございます。あのー、人参だのはすっていうのは皮剥きでむくんですが、あの、御坊は、あの、厚くむけるといけないんで、包丁の刃の先でこうこきますんで。一番面倒なのはしその実でございます。夏場あるときはよろしゅうございますが、冬ないときはいれないってわけにいきませんで、つけものやに、あの、塩漬けになってんのがございます。それかって来ていれるんです。すぐにいれますと、そりゃ塩っからいがんもどきができますんで、塩出しってんで水につけときます。と、このしその実が水を

    がんもどきの作り方 - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
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    soorce 2007/01/24
    ひりょうず、ひりゅうず、ひろうず、ひろうす、飛龍頭、飛竜頭。どれも表記としてあるかな。語源をポルトガル語としてるのもあるが???
  • 新書判(新書版)コミックスのビジネスモデルについて考える - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    そもそも、「新書」サイズの漫画の単行というのは、いつごろぐらいにできたのか、について調べてみたんですが、その初期のころにあったエピソードを語っているとても面白いテキストがあったのでご紹介。 →すがやみつるの雑記帳: 『仮面ライダー青春譜』第4章 アシスタントから編集者へ(7) ぼくがはじめて写植貼りをしたマンガは、少年画報社から新書判コミックスとして発売予定の『ワイルド7』だった。 新書判コミックスが誕生してから、まだ5年も経っていなかった。 コダマプレスが、マンガの新書判コミックスを発売したのは1965年のことだ。手塚治虫の『ロストワールド』、石森章太郎の『ミュータント・サブ』といった中高生あたりをターゲットにした作品を中心にしてスタートした新書判コミックスの市場に、やがて、朝日ソノラマ、秋田書店なども参入し、マーケットの規模を拡大した。 自社の雑誌に連載された作品が、他社からコミック

    soorce
    soorce 2007/01/14
    価格とか時期とかについてコメントした。ハリスの旋風の特集号は手元には無いです。
  • 『時計じかけのオレンジ』幻の最終章 - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

    そんなものがあるとは知らなかった。 ウィキペディアではこんな感じ。 →時計じかけのオレンジ - Wikipedia 削除された章 小説は21章から構成されるが、アメリカ合衆国で最初に出版された際、バージェスの意図に反し最終章である第21章が削除されて出版され、キューブリックによる映画来的の最終章を削除された版を元に作られた。映画化に際して一部のエピソードを省略したり複数のエピソードをまとめたりすることはよくあることだが、第21章があるか否かにより小説の印象は相当異なる。このため、映画版は原作者であるバージェスが意図しない終わり方をしている。 その後、アメリカでも第21章は復活して出版されるようになったが、日語翻訳版ではバージェスの意図に反し第21章が省略されたままとなっている。 (太字は引用者=ぼく) アンソニー・バージェスはいつ死んだのか調べてみたら、1993年でした。 というわけ

    『時計じかけのオレンジ』幻の最終章 - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
    soorce
    soorce 2007/01/03
    翻訳載せてるサイトの人の、最終章が「翻訳されなかった」なんてどんなデマ信じてるんだ。日本語版3バージョン全部調べても比較もしないでやったのかね。
  • 愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 本や映画の批評は知識のない「自分語り」レベルじゃ単なる「感想」だよ

    アカデミズムの人たちが映画について語っているテキストはなぜかたいてい退屈で、それは高校生ぐらいまでのときはぼくの頭が悪いせいなんだろうと思っていたんですが、小林信彦とか石川喬司とか双葉十三郎とか和田誠といった人たちの作品レビューを読んで、「アカデミズムな人は、数少ない読んだで自分語りをしたいだけなんだ」ということがわかりました*1。狭い穴(深いことは深いけれども)と少ない素材(素材的には美しかったり新しかったりするけれども)で、自分たちの知識の乏しさを隠している。ぼくは人の話を心のこもらないやりかたで聞くのは嫌いではないのですが、十分な知識と斬新な見方で何かを言ってくれる人のほうが興味深いわけです。 ええと、あんまりいい例が思い浮かばないんだけど、SFマガジンという、今では日でひとつしかないSF*2雑誌がありまして、1960年代は福島正実という人が編集長でした。小松左京や筒井康隆

    愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 本や映画の批評は知識のない「自分語り」レベルじゃ単なる「感想」だよ
    soorce
    soorce 2006/11/09
    このへんがサブカル意識とオタク意識の分かれ道なんじゃないかなーとか。自分が「俗」であるのを耐えられない人っていうのが居るんですよ。マンサン、ゴラク、週刊大衆、アサ芸を忌避するくせに気にする人たち。
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