目の前には大河クナール川が悠々と流れていた。ここまで来ているのに、そんなわけがない。失礼にも、うかつな質問と浅学の身を棚に上げてそう思った。付け焼き刃であっても1カ月は準備に専念し、著書や報告書、関連書籍も読み込んだつもりだった。その夜に宿舎で自分なりに描いた現場周辺の見取り図らしきものを見せながら、翌朝、同じ質問をした。「新聞記者らしくなってきましたね」と、中村さんはうなずいた。 その後、現地で密着した2週間、幾晩も時間をとってどんな質問にも答えてくれた。事業を伝えていくために「現場の証人、目撃者をつくっておきたいんです」。帰国後も亡くなる約10日前まで、何度取材に応じてもらったか分からない。 ◇ ◇ 「先生、おはようございます」。1日、福岡市のマンションの一室にある「ペシャワール会」の事務局。ボランティアの女性が中村さんの遺影に一礼して作業を始めた。中村さんと共に活動してきた会では
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