警告:本稿の題名は連載第5回と同じく、北村氏と同様に英文学者で批評家だった福田恆存の著名な論考に倣ったものである。教養ある北村氏は当然ご存じのことと思うから、彼女のファンは「タイトルが失礼だ」などと無知なコメントを拡散して、多忙な「さえぼう先生」にお手数をかけないように。 前回(連載第6回)の範囲で、北村氏の連続ツイートにおける主要な「指摘」が事実に反することはすでに論じたので、積み残しとなっていた論点のうち、まず彼女が3月28日の「論座」、および7月29日のAERAdot.(初出は『一冊の本』2021年8月号)に載せた2つの拙稿に寄せている表現面での批判を検証しよう。以下のとおり、それらは非常に拙い内容だ。 上記のツイートの意味がわかる人がいるだろうか。学術雑誌ではない「論座」の読者にはなじみが薄い人もいるだろう「フェミニスト批評」という用語を、「フェミニストとしての批評活動」と呼び換え