崔貞熙(さい ていき、チェ・ジョンヒ、1912年12月3日 – 1990年12月21日)は、朝鮮の小説家。号は淡人。女流作家ならではの女性描写に長けた筆は、「新女性」と言われた新しい時代に生きようとする女性たちの希望と受難を描いている。 1912年12月3日、咸鏡北道城津郡礼洞に生まれる。父は崔在淵、母は趙徳善の4きょうだいの長女。8歳のとき、咸鏡南道の端川に引っ越す。1924年、ソウルの淑明女子高等普通学校に入学する。1928年、卒業すると、中央保育学校に入学した。1929年に中央保育学校を卒業し、慶尚南道咸安の咸安幼稚園に保母として赴任する。1930年、18歳のとき、日本に渡り、東京の三河幼稚園の保母として働く。この頃、柳致真、金東園らと知り合い、「学生劇芸術座」に参加する。1931年に帰国すると三千里社に入社する。ここで『三千里』を経営する金東煥と恋愛をし、結婚する。 1934年、第
李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は、朝鮮の文学者、思想家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。本貫は全州李氏[1]。号は「春園」(チュンウォン、춘원)。創氏改名時の日本名は「香山光郎」(かやま みつろう)。 平安北道義州府定州郡出身。10歳の時に両親をコレラで亡くす。1905年に一進会の留学生に選抜され、日本の大成尋常中学校を経て、明治学院普通学部在学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。在学中に『無情』を発表。1919年、三・一運動に先立って、ほかの朝鮮人留学生とともに「二・八独立宣言」の起草に加わった後、上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。1921年に朝鮮に帰国にした後、朝鮮総督府に逮捕されるが不起訴のまま
「皇国臣民」の人間像−李光洙の「親日」活動と今日の「在日」コリアン− (平成6年度信州大学大学院人文科学研究科修士論文 上嶋隆一) −目次- はじめに 第1章 親日活動期の李光洙論をめぐる3つの立場 第1節 日本人による李光洙論 第2節 在日コリアンによる李光洙論 第3節 在韓韓国人による李光洙論 第2章 李光洙の生涯を辿る 第1節 孤児から日本留学 第2節 二・八宣言から臨時政府脱落まで 第3節 「親日」への道 第3章 「親日派」問題が今日の「在日」コリアンの在り方に問うもの 第1節 「在日」若者世代の在り様 第2節 「親日」と「在日」 第3節 「在日」を生きる はじめに 私は、1988年から1989年の韓国遊学経験のなかで、とりわけ日本と積極的に係わろうとする、あるいは係わらざるを得ない韓国人−在日韓国人や、日本人をパートナーとする職業の人々、
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