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ブックマーク / sarutora.hatenablog.com (5)

  • デモの行き方改めデモのつぶし方 - 猿虎日記

    アブナイ人たち 先日の「デモの行き方1」という記事では、まずさしあたり、私が参加した「ただ歩くだけのどうってことのないデモ(と私が思っていたところのもの)」について紹介し、デモがいかに「敷居が高くない」かを訴えるつもりでした。で、2では、私が参加したことのあるいわゆるサウンドデモ系のデモのことを書いて、そっちはちょっと雰囲気が違って、おびただしい警官の数(下手するとデモ隊以上)とものものしい警備がある、というようなことも書こうと思っていました。そこでは、using_pleasureさんの言うような たしかにデモに参加すると、なんだか政治活動を行ったという「実感」を得ることができるし、満足感もあるような気はする。警官隊が間近にいるから、国家権力と直に対峙しているような気になれる。けれど、それはそれで劇場化された見世物(この場合のオーディエンスは自分自身)にすぎないように思うし、結局そこでは「

    デモの行き方改めデモのつぶし方 - 猿虎日記
  • デモの行き方1 - 猿虎日記

    ※追記あり デモ関連のことを書けば書くほど、まるで、私はみんながデモに行かないことを嘆いており、みんなにデモへの参加を呼びかけているかのようになってしまっているような気がしてそれが実は気になっています。いや、別にそういうわけではなく、もともとは、デモが衰退したことを高みから批評しているような文への違和感を表明したかっただけ、ではあるのですが……。でも、逆に「行かなくてもいいんだ」とムキになって言うのもかえって変だし(笑) というわけで、いつも拝見しているspongeyさんが、「デモの敷居」というのを書いています。http://d.hatena.ne.jp/spongey/20060429 だけど、わたしデモ好きとはいえ、デモってものがどういう手順で行われるのか知りません。 いろんなデモがあるだろうけど、デモが開催されるときにわかったらいいなと思うのは、、 誰かが主催してるものなのか。 だと

    デモの行き方1 - 猿虎日記
  • 分断する思考とデモ - 猿虎日記

    分断する思考 「若者はどうしようもない」と言う老人。 そう言う老人に対して「老人はどうしようもない」と言う若者。 「モテはどうしようもない」と言う非モテ。 そう言う非モテに対して「非モテはどうしようもない」と言うモテ。 「デモするようなやつらはどうしようもない」と言う非デモ。 「デモしないようなやつらはどうしようもない」と言うデモ。 こうした思考を、サルトルは「集列的思考pensée sérielle」と呼ぶ。サルトルはそれが「わたし自身の思考ではなく〈他者〉となったわたしの思考」であり、「無力さimpuissanceの思考」である、と言う。サルトルはまた、それを「分断する思考pensée qui sépare*1」「分離主義的思想idée séparatiste*2」とも呼ぶ。 いま一つの企業を想像してみよう。そこでは二〇年か三〇年このかた、ただの一度もストライキが起こらず、だが「物価高

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  • 抵抗としての「怠惰」2 平等と怠惰 - 猿虎日記

    かつてここ*1でとりあげたように、齋藤孝は、ゲームのモノポリーについてのコラムにおいて、「運と勘と交渉術で一等地にホテルを建てることもできるし、一歩間違えば即退場」というこのゲームが「共産主義にケンカを売っているようなゲーム」であり、「だからおもしろいし、熱狂する」と言っている。 考えてみれば、共産主義ではこうはいかない。全員が平等で、計画どおりに働き、時々ストライキやデモを起こしてみるといった程度では、ゲームにならない。あったとしても退屈で、労多くして幸すくなそうだ。つまりゲームの世界においても、資主義は共産主義を凌駕しているのである。 「共産主義」は「平等社会」であるが、そうした社会は「面白く」なく、人々は労働意欲を失って社会は停滞する(旧ソ連のように)……こうした「俗流共産主義批判」は、かつてしばしば聞かれたものだ。 それに関しては、まず第一に、ソ連が「平等社会」であった、という前

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  • 抵抗としての怠惰1 アフリカ脳 - 猿虎日記

    1961年に出版された『地に呪われたる者』(鈴木道彦・浦野衣子訳、みすず書房)において、フランツ・ファノンはこのように言っている。 パリあるいはエクスで、アルジェあるいは、バス=テールで、幾度われわれは見たことか、黒人の怠惰paresse と言われ、アルジェリア人の、ヴェトナム人の怠惰と言われるものに、植民地原住民 colonisé が激しく抗議する姿を。にもかかわらず、植民地体制のもとで仕事熱心な自営農民(フェラー)、休息を拒むニグロこそ、まさしく病理学的個性にすぎないということは、まるで真実に反しているのだろうか。植民地原住民の怠惰とは、植民地機構に対する意識的サボタージュだ。それは、生物学的にみればみごとな自己防衛の一方式であり、また所詮は、国全体に及ぶ占領者の支配に、一定の遅延をもたらすものなのだ。 (邦訳291-2頁) このように、ファノンは「抵抗」「自己防衛」としての「怠惰」に

    抵抗としての怠惰1 アフリカ脳 - 猿虎日記
    stella_nf
    stella_nf 2006/04/10
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