もうもうと立ちこめる煙の中を、「とにかく外へ、外へ」と進んだ。「あがーよー、あがーよー(痛いよ、痛いよ)」と、悲鳴や子どもの泣き声が聞こえても、気に掛ける余裕はない。一緒だった弟や妹の存在まで「忘れていた」。 1945年4月2日、当時8歳だった沖縄県読谷村の上原豊子さん(83)は、家族で潜んだチビチリガマで「集団自決(強制集団死)」を逃れようと必死だった。表現もできない声が響く中、母カマドさんの着物の裾をギュッと握り締めていた。 混乱の始まりは前日の1日、米軍が本島西海岸に上陸した日だった。ガマは読谷の海岸から800メートルほどの距離。外から戻った住民の「うりひゃー、敵がちょーんどー(敵が来てるぞ)」との声に騒然とした。 米軍が投降を呼び掛け、「戦争は終わりました。外には食べ物も水もあります」などと書いたビラを見せたが、誰も出ようとはしない。竹やりを手に住民がガマを出て、男性2人が米兵に撃
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