為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがり容貌魁偉、また強弓の使い手で、前に出して弓を支える左腕が、後で弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長いという、弓を引くために生まれたような体つきをしていた。勇猛で兄たちにも傍若無人であった。 13歳の時、乱暴が過ぎて父の為義に勘当され、九州に追放される。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。その後、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、菊池氏、原田氏など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めを繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまった。香椎宮の神人が為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、久寿元年(1154年)に出頭の宣旨が出されてしまう。為朝はこれに従わなかったが、翌久寿2年(1155年)に父が解官されてしまった。これを聞いて