フレーミングの超基本 撮りたいのは、芸術写真とか人に感銘を与える写真とかではなく、ごくごく普通の写真。なので、特にテクニックなんか不要で、ただシャッターボタンを押しさえすればいい。 …と思っていたのだが、どうもそうでもないようだ。 基本的なセオリーがあって、それを知らないと、なんとなく不自然な写真になってしまう場合がある。(個人差アリ) 図1を見て頂きたい。 写真として、どこか不自然さを覚えるだろう。
東京都青少年健全育成条例について基礎ゼミの発表がある。 「表現に対する法的規制」というものについて私は原理的に反対である。 ふつうは「表現の自由」という大義名分が立てられるけれど、それ以前に、私はここで言われる「有害な表現」という概念そのものがうまく理解できないからである。 まず原理的なことを確認しておきたい。 それは表現そのものに「有害性」というものはないということである。 それ自体有害であるような表現というものはこの世に存在しない。 マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁にどのようなエロティックな図画が描かれていようと、どれほど残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができない。 「有害」なのはモノではなく、「有害な行為」をなす人間だからである。 全米ライフル協会は「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と主
この記事は「トルコで僕はなにを考えようとしていたか(トルコ旅行記その1) - 紺色のひと」の続編です。 4月5日 月曜日(3日目) 朝6時30分、僕は携帯電話のアラームで目を覚ました。トルコはイスタンブール、観光地のど真ん中にある小さなホテルの一室。前日は飛行機の中で眠ったり目覚めたりを繰り返していたせいか、昨晩は横になった瞬間に眠りに落ちたような気がする。隣の妻はぴくりとも動かない。喉の渇きを覚え、枕元のペットボトルを手に取ると、薄いカーテンが窓ガラスに貼り付いていることに気付いた。ひどく結露している。身を起こして洗濯物を触ると、まったく乾いていなかった。念の為にバスルームの換気扇を回してそちらにも干していたが、大して状況は変わらなかった。部屋の造りと気候のせいだろう、完全乾燥は期待していなかったのでさして落胆もせず、僕はさっさと自分の湿った洗濯物を丸め始めた。 妻を起こし、身支度を整え
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