「視差」戦略的に全面的に再編成 カントは『純粋理性批判』で、たとえば、「世界には始まりがある」というテーゼと「始まりがない」というアンチテーゼが共に成立することを示した。それはアンチノミー(二律背反)を通してものを考えることである。しかし、カントはそれよりずっと前に、視差を通して物を考えるという方法を提起していた。パララックス(視差)とは、一例をいうと、右眼で見た場合と左眼で見た場合の間に生じる像のギャップである。カントの弁証論が示すのは、テーゼでもアンチテーゼでもない、そのギャップを見るという方法である。実は、そのことを最初に指摘したのは、私である(『トランスクリティーク――カントとマルクス』)。それを読んだジジェクは、本書において、戦略的なキーワードとして、パララックスという語を全面的に使用した。といっても、たんに言葉を取り入れただけである。本書は、その語を使って、彼がすでにこれまで書
<この国はどこへ行こうとしているのか> ◇デモでノーと言おう--柄谷行人さん(70) 「--そうですね、死と同じかもね」。今にも雨が落ちてきそうな薄暗い午後、東京郊外の自宅で、柄谷行人さん(70)は静かに語り始める。福島第1原発事故をどう受け止めたか、との質問への答えだった。「原発で事故が起こるとどうなるか、ということは昔から本で読んではいたんです。だから予想できたことなのに、分かっていたはずなのに、実際に起こってみるとそれに対して何も考えてこなかったな、と感じる。自分の死もそういうものでしょう」 思想、経済、文学、政治、科学--さまざまなジャンルをアクロバット的に行き交い、硬質な文体で論じてきた知性は「フクシマ」からしばらくの間、原発についての本以外、何も読めなくなってしまったと言う。原発建設に対して何もしてこなかったことに忸怩(じくじ)たる思いがある、とも。 その柄谷さんが今、ことある
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十年前の一月号には「群像」と「文学界」が柄谷行人の対談や鼎談を載せた。どちらも良い。NAM を始めた頃で、柄谷の発言は意気軒昂としている。それとはあまり関係無い部分を引用しよう。もちろん、NAM を始めたという文脈で語っていることではある。「群像」の「時代閉塞の突破口」で、相手は村上龍だ。 自然主義は文学史の概念で、いろいろ議論はあるけど(略)、今まで君がやってきたようなこと、他の作家も皆やっていること、これを自然主義と呼んだほうがいい。要するに、ネガティブなことだけを描く。しかし、そのことが結果的に国家への対抗になっているのだ、と。私小説もそうです。自分の病理的な世界を書く、しかし、それが同時に世界の病理であり、その「鏡」になっているのだ、というわけです。だから、、何を書いても許されるし、くだらない自己暴露が妙に評価されたりする。石川啄木が「時代閉塞」と呼んでいるのは、大逆事件後の状況で
MC:それでは新海監督をお呼びいたします。4年ぶりの『秒速』の上映、監督いかがでしたか? 新海:『秒速5センチメートル』は、もう4年も前の作品で、こちらの劇場でも上映させていただいたのですが、僕にとっては特別な作品だったんですね。なぜ特別なのかというのはこのあとお話しさせていただきます。1週間前に僕たちの最新作『星を追う子ども』が公開になり、池袋と新宿で舞台挨拶をしてきたのですが、その時にちょうど、4年前にこの劇場でお世話になったスタッフの方がサイン会に来てくださり、「うちのキネカ大森にも来てください」と言われ、それで今日の舞台挨拶とティーチインが実現しました。そんなふうに、人と人のつながりがこの作品を中心につながっているということを実感します。 MC:改めて、監督にとって『秒速』はどんな作品だったんですかね? 新海:実は、ちょっと愛憎半ばの作品なんですね。というのは、新作『星を追う子ども
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