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前漢に関するsyokatu10のブックマーク (11)

  • 名馬 - てぃーえすのメモ帳

    文帝自代還。有良馬九匹。皆天下之駿馬也。一名浮雲。一名赤電。一名絶群。一名逸驃。一名紫鷰騮。一名䖝螭驄。一名龍子。一名麟駒。一名絶塵。號為九逸。有來宣能御。代王號為王良。倶還代邸。 (『西京雑記』巻二) 漢の文帝は名馬集めが趣味だったのかもしれない。 文帝は代王時代に天下の名馬九匹を所有していたという。 「浮雲」「赤電」「絶群」「逸驃」「紫鷰騮」「䖝螭驄」「龍子」「麟駒」「絶塵」というそれぞれ少し中二病チックなカッコいい名前を付けられていた。 三国時代、「赤兎」「絶影」「馬超」など、名馬にはしばしば名前が付いていたのは周知の事実だが、これは少なくとも前漢以来の伝統だったらしい。

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  • 夫人の眉 - てぃーえすのメモ帳

    又為婦畫眉、長安中傳張京兆眉憮。有司以奏(張)敞。上問之、對曰「臣聞閨房之内、夫婦之私、有過於畫眉者。」上愛其能、弗備責也。然終不得大位。 (『漢書』巻七十六、張敞伝) 前漢の名太守の一人、京兆尹張敞は夫人のために眉を描いてやったという。 長安の人々はそのことを噂し合った。 おそらく、これは当時の感覚ではかなり奇矯な行為だったのだろう(現代日でも珍しい部類だとは思うが)。 その件はおそらく官僚としての風紀の問題か、あるいは統治する民に噂されていることが京兆尹としての資質の問題となったのか、とにかく弾劾されて当時の皇帝、宣帝の耳にも入ることとなった。 宣帝がそれについて尋ねると、彼は言った。 「夫婦生活の上では眉を描いてやる以上の破廉恥行為があると聞いております」 寝室ではみんなもっと変態行為やってるだろ、俺なんて大したことないだろ、ということだろう。 当時の社会風俗について、色々と類推し

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  • 墓荒らし - てぃーえすのメモ帳

    葛洪抱朴子曰呉景帝時、戍將於廣陵掘諸冢、取版以治城、所壞甚多。復發一大冢、内有重閣、戶扇皆樞轉可開閉、四周為徼道通車、其高可以乘馬。又鑄銅為人數十枚、長五尺、皆大冠朱衣、執劍列侍靈座、皆刻銅人背後石壁、言殿中將軍、或言侍郎・常侍。似公主之冢。破其棺、棺中有人、髮已班白、衣冠鮮明,面體如生人。棺中雲母厚尺許、以白玉璧三十枚藉尸。兵人輩共舉出死人、以倚冢壁。有一玉長一尺許、形似冬瓜、從死人懷中透出墮地。兩耳及鼻孔中、皆有黄金如棗許大、此則骸骨有假物而不朽之效也。 (『三国志』巻四十八、孫休伝注引『抱朴子』) 呉の孫休の時代、広陵で城壁の材料にするため墓を破壊して資材を取っていくということが行われていたが、ある時物凄い規模の墓を掘り当ててしまったという事件。 おそらく前漢代の広陵王やその親族クラスの墓だろう。 世語曰、黄初末、呉人發長沙王呉芮冢、以其塼於臨湘為孫堅立廟。芮容貌如生、衣服不朽。後豫

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  • 楽団員の再就職 - てぃーえすのメモ帳

    是時、鄭聲尤甚。黃門名倡丙彊・景武之屬富顯於世、貴戚五侯・定陵・富平外戚之家淫侈過度、至與人主爭女樂。 哀帝自為定陶王時疾之、又性不好音、及即位、下詔曰「(略)其罷樂府官。郊祭樂及古兵法武樂、在經非鄭・衛之樂者、條奏、別屬他官」 丞相孔光・大司空何武奏、「(略)師學百四十二人、其七十二人給大官挏馬酒、其七十人可罷。大凡八百二十九人、其三百八十八人不可罷、可領屬大樂、其四百四十一人不應經法、或鄭・衛之聲、皆可罷。」 (『漢書』礼楽志) 漢の哀帝は淫乱の音楽と言われていた鄭の音楽の流行(ちなみに元帝が音楽大好きであり、儒者が眉をひそめるような音楽の流行も元帝が原因の一つではないかと思われる。)を苦々しく思っており、皇帝に即位すると朝廷の音楽を統括する楽府廃止と楽団リストラを断行した。 そこで丞相らはリストラ案を上奏するわけだが、その中では「其七十二人給大官挏馬酒、其七十人可罷。」と、廃止後の楽

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  • おしつけ沛公 - 雲子春秋

    秦末、沛の父老たちは沛令を殺し、劉邦を沛公とした。 その後、劉邦によって漢がたてられることはいうまでもないのだが、 劉邦が沛公になった経緯がちょっと面白い。 『漢書』巻一高祖紀 蕭﹑曹(等)皆文吏,自愛,恐事不就,後秦種族其家,盡讓高祖. 諸父老皆曰:「平生所聞劉季奇怪,當貴,且卜筮之,莫如劉季最吉.」高祖數讓. 衆莫肯為,高祖乃立為沛公. 父老たち「沛令殺しちゃいました」 文吏(蕭何・曹参ら)「もしリーダーになって、この後うまくいかなかったら秦に一族皆殺しにされんじゃね」 劉邦「え」 文吏「というわけで劉邦さんリーダーになっちゃってください」 劉邦「え」 父老「この中で一番幸運なのはあなたです」 劉邦「え」 文吏&父老「どうぞどうぞ」 テッテレー 劉邦は沛公にジョブチェンジした!! 陳勝・呉広をはじめとして各地で反乱が起こっていたわけだけれど、まだ多くの人は秦を恐れていた。 また、劉邦

    おしつけ沛公 - 雲子春秋
    syokatu10
    syokatu10 2010/04/05
    ジョブチェンジしたってか、「させられた」に近いのかね?
  • 孫氏 - てぃーえすのメモ帳

    初(夏侯)嬰為滕令奉車、故號滕公。及曾孫頗尚主、主隨外家姓、號孫公主、故滕公子孫更為孫氏。 (『漢書』夏侯嬰伝) これによれば夏侯嬰の子孫が「孫公主」と呼ばれるお姫様と結婚し、それ以来夏侯嬰の子孫は「孫氏」と改姓したという。 三国時代の夏侯惇ら夏侯氏は「夏侯嬰の子孫だ」とされているわけだが、上記の『漢書』における改姓との整合性はあまり語られないような気がする。

    孫氏 - てぃーえすのメモ帳
  • 姓字名 - てぃーえすのメモ帳

    古代中国において人名を表記するとき、「姓」と「名」を連記し、それから「字○○」と「字」を書く場合が多い。 ただし、「姓」、「名」、「字」を続けて書く場合もある。 每自比於管仲・樂毅、時人莫之許也。惟博陵崔州平・潁川徐庶元直與亮友善、謂為信然。(『三国志』諸葛亮伝) 更にもう一つ、こんな表記法がある。 孔子傳易於(商)瞿、瞿傳楚人馯臂子弘、弘傳江東人矯子庸疵、疵傳燕人周子家豎、豎傳淳于人光子乘羽、羽傳齊人田子莊何、何傳東武人、王子中同、同傳菑川人楊何。何元朔中以治易為漢中大夫。 (『史記』仲尼弟子列伝) かの孔丘先生は易経を商瞿という人物に伝えた。 商瞿は楚人の馯弘、字は臂子という人物に伝えた。 馯弘は江東の人の矯疵、字は子庸という人物に伝えた。 矯疵は燕人の周豎、字は子家という人物に伝えた。 周豎は淳于の人の光羽、字は子乘という人物に伝えた。 光羽は斉人の田何、字は子荘という人物に伝えた。

    姓字名 - てぃーえすのメモ帳
  • さかのぼり前漢情勢15 - てぃーえすのメモ帳

    忘れた頃にやってくるhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100216/1266246067の続き。 さて、宣帝の独裁権力と宦官重用はどこから来たのか。 霍光時代のちょっと後のこと。 霍光の息子霍禹、親族霍山らが権力を引き継いだが、能力に欠ける二世たちがすんなりと霍光の後継者に納まれるものではない。 だが、彼らは霍光から引き継いだ領尚書事の職権を用いて転落を防いでいた。 山曰「今丞相用事、縣官信之、盡變易大將軍時法令、以公田賦與貧民、發揚大將軍過失。又諸儒生多窶人子、遠客飢寒、喜妄說狂言、不避忌諱、大將軍常讎之、今陛下好與諸儒生語、人人自使書對事、多言我家者。嘗有上書言大將軍時主弱臣強、專制擅權、今其子孫用事、昆弟益驕恣、恐危宗廟、災異數見、盡為是也。其言絕痛、山屏不奏其書。後上書者益黠、盡奏封事、輒下中書令出取之、不關尚書、益不信人」 (『漢書』霍光伝) 「山屏不奏其書

    さかのぼり前漢情勢15 - てぃーえすのメモ帳
    syokatu10
    syokatu10 2010/02/19
    今のところさかのぼり前漢情勢の中で一番面白かったと言いたいがためのブクマ。どこまで行くんだろう?頑張って完走してください。出だしのセリフとか地味に期待してますw
  • 食の安全 - 雲子春秋

    張家山漢墓から発見された前漢呂后二年(前185年)の法律と推定される二年律令からの話。 諸脯肉、毒殺・傷・病人者、亟盡孰(熟)燔其餘。其縣官脯肉也、亦燔之。當燔弗燔、及吏主者、皆坐脯肉臧(贓)、與盜同法。 〔三國時代出土文字資料の研究班「江陵張家山漢墓出土「二年律令」譯稿 その(一)」(『東方學報』第76冊 京都大學人文科學研究所 2004)126頁〕 干し肉の中毒が発生した場合、余りの肉を全て焼却処分にしたという。 紀元前から品衛生法が存在していたのである。 漢代社会は思ったよりすすんでいたのかもしれない。

    食の安全 - 雲子春秋
    syokatu10
    syokatu10 2010/02/16
    面白い。「紀元前から食品衛生法が存在していたのである」の一文に惹かれた
  • 漢~晋の服装・冠うp - 日暮れて途遠し‥

  • 大紀元 エポックタイムズ – 真実と伝統

    The One Health definition. (CDC/National Center for Emerging and Zoonotic Infectious Diseases)

    大紀元 エポックタイムズ – 真実と伝統
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