朝鮮半島全土を荒廃させ、豊臣政権崩壊の要因ともなった十六世紀東アジア最大の国際戦争「文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)」。どうしても戦地となった朝鮮半島を中心にして語られることが多いが、少し視点をずらして琉球・東シナ海を中心にして眺めてみると、同戦争の別の面が見えてくる。「文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)」を巡る情報戦である。 ということで昨日の記事「琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史」を話のまくらにしようと思っていた記事。主に上里 隆史 著「琉日戦争一六〇九―島津氏の琉球侵攻」の記述を中心に、いくつかの関連書籍・サイトを参照している。 朝鮮出兵計画は早くから明に漏れていた。そもそも、秀吉は幾度となく軍事的侵攻を仄めかす恫喝文書を東アジア諸国に送っていたこともあって、いつ攻めてきてもおかしくないという危機感が諸国にはあったが、それが朝鮮・明国への大規模侵攻と