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仏教に関するtabascocatのブックマーク (6)

  • http://piicats.net/sonkaku.htm

  • English Personal Names and Their Japanese Equivalents | WND I | Nichiren Buddhism Library

  • 相待と絶待 - 浄土真宗の学び場、法雷窟

    「龍樹・親鸞ノート」を読んで「そうなんだなぁ」と思ったことがあるので書いておきます。昔の仏教のを読むと書いてあることが多いのですが「相待や絶待」という字をよく使われています。その理由を特に考えてきませんでしたが、そうかもなぁと思ったので、以下に引用しておきます。 龍樹が用いる特別な術語に、(パラスパラ・)アペークシャー(apeksa)というのがありますが、それは「相関」−他のものと相い関係し合う、また「相依」−相い依り合う、それから「相待」とも訳されます。 この「相待」という語は、「相対」という語とよく誤解されますが、両者が根的に異なる点は、「相待」は他のものを待っているのです。たとえば、私は執筆者という名目でいま文章を綴っていますが、実は読者を待っているのです。読者がいなければ、私は執筆者でもなんでもない、一介の、かなり年老いた、たんなる男にすぎないのですけれども、読者が読んでくださ

    相待と絶待 - 浄土真宗の学び場、法雷窟
  • 獅子身中の虫 : 故事ことわざ辞典

    獅子身中の虫の解説 【読み方】 しししんちゅうのむし 【意味】 獅子身中の虫とは、内部にいながら害をもたらす者や、恩を仇で返す者のたとえ。 【注釈・由来】 獅子の体内に寄生しておきながら、獅子を死に至らせる虫の意味から。 もと仏教語で、仏教徒でありながら仏教に害をもたらす者のことをいった。 『梵網経』に「獅子身中の虫、自ら獅子の肉をらい、余外の虫に非ざるが如し。是くの如く仏子自ら仏法を破り、外道・天魔の能く破壊するに非ず(獅子は自身の体内に巣う害虫にわれて死ぬのであり、外からの虫にわれるのではない。これと同じように悪い仏徒が自ら仏法を破壊するのであり、外道や天魔が仏法を破壊するのではない)」とある。 【出典】 『梵網経』 【例文】 ・獅子身中の虫を駆除しなければ、この組織が潰れるのも時間の問題だ。 ・彼はチームのために心血を注いでいるが、結果的に獅子身中の虫になっている。 ・経営陣

    獅子身中の虫 : 故事ことわざ辞典
  • 断見 - Wikipedia

    断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。 原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間や我(アートマン)の断滅を主張したものである。「見(ディッティ)」とは見解・意見・見方のこと。 人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して、この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう。六師外道の順世派(アジタ・ケーサカンバリン)などが登場する。[疑問点 – ノート]長部梵網経では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている。 断見の反対語は常見といい、この世は永遠で不滅であるという見方(常住論, sassatavādā)であるが、仏教では無記を説き[

  • 常見 - Wikipedia

    常見(じょうけん)とは、仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅である(常住;sassata)とする見解のこと。常住論(sassatavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は断見(だんけん)。 原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張したものである[2][1]。「見」(ディッティ,dṛṣṭi)とは見解・意見・見方のこと。 人の一生・人生はこの世の一回限りであるが、死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が不滅で永続するものであると肯定する見解をいう[1]。梵網経では「我と世界は常住である。死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている[2][1]。 常見の反対語は断見といい、この世は有限で永遠のものではないという見方(断滅論, ucchedavādā)であ

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