今日七軒町(しちけんちょう)まで用達(ようた)しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町(あいぞめちょう)を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだかなつかしいような気がした。黒田が此処(ここ)に居たのはまだ学校に居た頃からで、自分はほとんど毎日のように出入りしたから主婦とも古い馴染(なじみ)ではあるが、黒田が居なくなってからは妙に疎(うと)くなってしまって、今日も店に人の居なかったのを却(かえ)って仕合せに声もかけずに通り過ぎた。しかしこの家の二階は何となくなつかしい、昔の香がする。二階と言って別に眺望が佳いのでもなければ、座敷が綺麗だという訳でもない。前にはコケラ葺(ぶき)や、古い瓦屋根に草の茂った貸長屋が不規則に並んで、その向うには洗濯屋の物干が美しい日の眼界を遮ぎ