2013年2月23日のブックマーク (4件)

  • 安倍首相、日本がアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えたことを認める - 誰かの妄想・はてなブログ版

    ワシントンポストによる安倍首相に対するインタビューです。 Q: A number of people comment on your strong focus on the economy but also say that in your heart, the issues of history — and how Japan is perceived historically — is very important to you, so that eventually during your prime ministership those issues are bound to come out. I wonder if you could comment on that. http://www.washingtonpost.com/world/transcript-of-inter

    安倍首相、日本がアジア諸国に対して多大の損害と苦痛を与えたことを認める - 誰かの妄想・はてなブログ版
    takamm
    takamm 2013/02/23
    同感。「海外と日本国内の認識のズレが拡大していく状況には恐ろしいものがあります。」
  • 私にも話させて

    新天皇の幼少期からの友人という小山泰生の著書『新天皇と日人』(海竜社、2018年11月刊)には、いろいろ注目すべき記述があるが、中でも興味深かったのは、以下の箇所である。 ・天皇明仁(書中では「今上陛下」。現在は上皇)は憲法違反の懸念があるのにビデオメッセージを放送した。「天皇の言葉で世論が動いたとき、内閣は動き、国会も呼応して、法律が一できあがった、この事実が重要なのです。これからも、そのときの世論が沸騰したならば、それに対しての天皇のお考えが内閣を動かしてもいいのではないでしょうか。つまり、今上陛下は、その前例を作ったのです。」(43~44頁) ・国会で可決された法律に憲法上の手続きの瑕疵があれば、日国憲法第99条の憲法擁護義務により、天皇は法理論上、法律の署名と交付を拒否することができる。法律が可決されたとしても、天皇がそれに署名しなければ、憲法上、その法律は成立しないのだか

    私にも話させて
    takamm
    takamm 2013/02/23
    五野井氏のような人が「世界」(臨時増刊号)に登場する時代なんだねえ。この指摘は至当。「極右デモへの参加がポジティブなものとして捉えられているところに、この五野井の<新しさ>がある。」
  • ネット弁慶が街中に現れた理由:日経ビジネスオンライン

    心を痛めている。 ……という書き出しを読んだ瞬間に 「なんだこの偽善者は」 と身構えるタイプの読者がいる。 ながらく原稿を書く仕事をしてきて、最近、つくづく感じるのは、若い読者のなかに、情緒的な言い回しを嫌う人々が増えていることだ。 彼らが嫌う物言いは、「心を痛める」だけではない。 「寄り添う」「向き合う」「気遣う」「ふれあい」「おもいやり」「きずな」といったあたりの、手ぬるい印象のやまとことばは、おおむね評判が良くない。かえって反発を招く。 彼らの気持ちは、私にも、半分ぐらいまでは理解できる。 この国のマスメディアでは、論争的な問題を語るに当たって、あえて情緒的な言葉を使うことで対立点を曖昧にするみたいなレトリックを駆使する人々が高い地位を占めることになっている。彼らは、論点を心情の次元に分解することで、あらゆる問題を日曜版に移動させようとしている。 若い読者は、そういう姿勢の背後にある

    ネット弁慶が街中に現れた理由:日経ビジネスオンライン
    takamm
    takamm 2013/02/23
    彼らは、当面の狙いである、「めんどうくさいことを嫌う会社員の人たちを黙らせる」戦いにおいて、勝利をおさめつつある。われわれは、黙らされている。下を向いて、自分の足下ばかり見ている。
  • 槇村浩 - Wikipedia

    槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年9月3日)は、日のプロレタリア詩人。名は吉田 豊道(よしだ ほうどう)。 人物[編集] 高知県高知市生まれ。1931年、日プロレタリア作家同盟高知支部を作り、その後、「槇村 浩(まきむら こう)」のペンネームで作家活動をした。反戦運動・労働運動にも参加し、反戦詩『間島パルチザンの歌』は代表作とされている。 槇村の作品は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え、日兵士に中国軍兵士と共同して日軍への反乱を呼びかけるなど、当時のプロレタリア文学においても例のない国際連帯の視点に貫かれていた。これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去。享年26。 名前[編集] 「まきむらひろし」と紹介している文献が一部にあるが、生前の槇村人と面識のあった人物は一様に「こう」と呼んでおり、「こう」が正しい。

    takamm
    takamm 2013/02/23
    晩年の山川暁夫が「自分はいまだに20代で死んだ槇村浩を越える文章を書くことができていない」と講演で話していたことを思い出す。短くて激しい生涯。