ナオミ・ワッツの出世作でもある 「マルホランド・ドライブ」Photo:Album/アフロ [映画.com ニュース] 情報誌タイム・アウトのニューヨーク版が、過去10年間に公開された映画のベスト50を発表した。同誌に寄稿する14人の映画評論家・ライターがそれぞれ挙げたベスト10をもとに集計したもの。 第1位に輝いたのは、デビッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」(01)。同誌編集部が「2000年代という時代を反映する、“意味のある”“重要な”映画をランキングする」というように、いわゆる名作や大作のくくりにとらわれないリストになっている。20位以内にリンチ監督作品が2本、フランスのクレール・ドゥニ監督作品が2本ランクインするなど、かなりアート系に寄ったニューヨークの情報誌らしいセレクションと言えそうだ。 日本映画は第11位に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」、32位に青山真治監督の「EU
沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体:澤村、1908年〈明治41年〉11月11日 - 1996年〈平成8年〉8月16日)は、日本の女優、随筆家。本名は大橋 貞子(おおはし ていこ)。 生涯に350本以上の映画に出演し、幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍した。日本女子大学在学中に新築地劇団へ入り、左翼演劇運動に加わって2度逮捕される。その後日活に入社して映画女優となり、東宝を経て戦後はフリーとなる。エッセイストとしても知られ、半生記『貝のうた』『私の浅草』などを発表している。 来歴[編集] 生い立ち[編集] 1908年(明治41年)11月11日、東京府東京市浅草区猿若町(現・東京都台東区浅草)に、父・加藤伝九郎と母・マツの2男2女の二女として生まれる[1]。父の伝九郎は竹芝傳蔵の名で活躍した狂言作者で、兄の友一は四代目澤村國太郎、弟の徳之助は加東大介の芸名で、ともに映画俳優となっ
植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、欧米文学、ジャズ、映画の評論家。通称“J・J氏”。 経歴[編集] 植草は東京市日本橋区小網町(現在の東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年、東華小学校入学。10歳の頃から姉に連れられて地元の映画館「水天館」に通う。1921年、渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年、関東大震災で被災。これをきっかけに植草家は没落する。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。併せて神田錦町の日土講習会に通う。当時は『無産者新聞』を愛読し、左翼思想に惹かれていた。1927年、第一高等学校を再度受験して失敗し、第一早稲田高等学院理科に補欠で入学した。1930年、早稲田大学理工学部建築
宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日)は日本映画界を代表する映画カメラマンである。主に京都太秦、大映映画の時代劇における陰影ある斬新な撮影で稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる。本名:宮川 一雄。 来歴[編集] 東京オリンピック(記録映画)の撮影車両(1964年) 京都市河原町御池生まれ。マキノ雅弘は小学校での同級生。 少年時代、墨絵を習っていて墨汁の白黒だけで色を使わせてもらえない事が不満だったと自伝で明かしているが、それが逆に白黒映画撮影時の表現に役立った。 京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高等学校)を卒業後、18歳で日活京都へ現像部助手として入社。約3年程を見習いとして修行する。当時の野球部に所属し、運動は得意であった。その後、撮影部の欠員に伴い撮影部に移動した。1970年よりフリー、60年以上にわたり日
長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年(明治41年)2月27日 - 1984年(昭和59年)4月6日)は、日本の俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。身長162cm[3]。 戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[4]。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。 最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長
YouTube効果で、初めて観られた。 伝説の名画「ランデブー」 噂には聞いていたが、マジで圧倒される9分間であった。 1965年にクロード・ルルーシュ監督が撮影したもので、自分の愛車フェラーリ275GTBにカメラを取り付け、F1ドライバー、モーリス・トランティニアンに運転させて、パリの公道をアクセル全開で突っ走る短編映画。1カメ・ノーカットのドキュメント映像。それも許可なしの爆走なので交通規制なし。 1965年の早朝のパリを、凱旋門、シャンゼリゼ、コンコルド広場、ルーブル、オペラ座、そしてモンマルトルのサクレ・クール寺院まで、赤信号すべて無視、車やバスやトラック、そして人やハトもすれすれで通りすぎる。んでもって単なる映像ものかと思わせといて、ラストのラストに物語が用意されているのも素晴らしい。 撮影後にルルーシュ監督は逮捕されたらしい(笑)。そりゃそうだ。ひとつ間違えれば大事故である。
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