話は昨日のエントリ「極東ブログ: アラブ諸国の若者人口構成が抱える爆弾」(参照)に関係して、今週の日本版ニューズウィーク6・11には国際版編集長フォード・ザカリアによる「アメリカ後の世界を読む(The Rise of the Rest)」という長めのエッセイについて。 このエッセイはは近著”The Post-American World”(参照・オーディオブック)のサマリーともいえる。例によって英文は無料で読める(参照)。現代の世界をかなりざっくりと描いているので、大学生とかビジネスマンの人は読んでおくよいのではないかと思う。 話はどうか。端的にいえば、米国の時代は終わるということ。そしてどうなるのか? 田中宇のいうような多元的な世界になるのか。 ザカリアの考察には大統領選挙による米国の変化の可能性は含まれていない。この時期に出すのだから、なんらかの意味が合いがあると考えてよいのだろうが、
日経新聞社説「気がかりな止めどない労働組合の衰退」で指摘されている労組衰退の事実が面白かった。論旨は別にどってことはない。日経としては労組頑張れとしたいのだろうが、無意味だろう。私としては、労組の衰退に心からどす黒い喝采の声を上げたい。おまえらこそ、派遣労働者や非日本籍の労働者の敵だ、つまり、本当の労働者の敵だと呪いたいのである。そう呪わせる経験が私はある。でも、それはあまりに複雑な私怨かもしれないので、話は膨らまさない。 読売新聞社説「決断の年 教育のグランドデザイン描け 基本法改正の時だ」のネタをなんとなく取り上げる。読売の社説はつまらないし倒錯している。が、読売新聞に批判を投げても無意味だろう。教育について、こうした読売的な考えの人たちに私は違和感を持つ、というくらいだ。彼らは教育を良くするにはこうしろという。 そのためには、基本法を改正し、家族や国など、自分を超え、自分を支える共同
白川静の漢字についての話は、膨大な「と」(「とんでもない」法螺話)だと思っている。こんなものをありがたがるの知識人がいるのも、なさけないことだなと思っている。が、そういう意見を見かけたことがない。ま、いいか。自分ではそれで決着が付いている。だが、どうも最近、天声人語など白川説を使ったエッセイのようなものをみかける機会が多く、不快というか、阿呆臭くてしかたない。誰かきちんと専門家が批判せーよと思うのだが、批判というのがあまり見あたらない。と、そんなことを思っていたら、面白い話をブログで見つけた。羊堂本舗(2004-02-06)「ここはひどいインターネットですね」(参照)である。そこから関連の話を読んだ。 知らなかったのだが、2ちゃんねるで白川静が「と」じゃねーのということで話題になっていた。ふーんという感じだ。やっぱ、白川静は「と」だと思う人は少くないようだ。やっぱなと思う。対極で出てくる藤
キリスト教でも平信徒には現実的にはそれほど問題にはならないのが三位一体論だろう。難しすぎるからだ。が、これは異端排除のための信条とも関係していて、歴史を知る上ではなかなか避けがたい部分もある。まあ、こんなエントリではそれほど突っ込まないのだが、昨日エル・グレコのエントリを書いてから、映画とは別として彼は正教の信仰だっただろうかとつらつらと考えた。というか最近つらつらと考えていた。個人的には青春が残した課題でもあった。 正教とカトリックの違いは通常フィリオクェ問題(参照)として知られている。エル・グレコなども平信徒だろうし普通平信徒はこうした問題に悩むことはない。が、そういう信仰の話ではないので、ウィキペディアを借りて話を進める。 フィリオクェ問題(フィリオクェもんだい)は、キリスト教の神学上最大の論争のひとつである。ローマ・カトリック教会と正教会の分離、いわゆる大シスマ(東西分裂)の主要な
この手の話題は盛り上がるわりに落とし所が決まっていて議論にするとすげーつまんないことになるのだけど、ディテールはけっこう面白いというわけで、ちんたらしたブログのエントリ向き。なんの話題? 30歳以下はバカ世代……おおっと、日本の話じゃないよ。だから、ゆとり世代の話じゃないんだってばさサマンサタバサ。 ネタはNewsweek日本版6・11”U30「バカ世代」論のウソ(The Dumbest Generation? Don't Be Dumb?)”。英語のテキストは無料で読める(参照)。日本版のリードは「デジタル時代がアメリカの若者を空前のバカ集団にした? ---- そんなバカな!」で、英語版では"George Santayana, too, despaired of a generation's ignorance, warning that 'those who cannot rememb
話は海外小ネタものなので他のブログが取り上げているか、すでに翻訳が出ているかわからないが、今日付のロイター”Trauma common feature of American Indian life”(参照)が興味深かった。 標題を現代日本語で訳すと「ネイティブ・アメリカンの生活ではその多数にPTSD(心的外傷後ストレス障害)が見られる」となるだろうか。いや、それはちょっと悪い冗談だ。シンプルに訳せば「アメリカ・インディアンの生活の多数にトラウマ(心的外傷)が見られる」となるだろう。 冒頭も簡単に意訳しておこう。 More than two-thirds of American Indians are exposed to some type of trauma during their lives, a higher rate than that seen in most other A
「その夜の終りに(三枝和子)」(参照)は、平成元年「群像」九月号に発表された後、単行本となった。私の手元にある翌年刊行された初版奥付を見ると一九九〇年二月二三日とある。版を重ねたかどうかは知らない。 三枝和子(さえぐさ かずこ)は、一九二九年(昭和四年)三月三一日の生まれ。今日が誕生日であり、存命なら七八歳であったことだろう。が、二〇〇三年、亜急性小脳変性症により七四歳で亡くなった。その前年に癌の手術も受けていた。喪主となったのは夫の文芸評論家森川達也。彼は昨年五月五日肺気腫で亡くなった。八三歳。生年は一九二二年(大正十一年)。三枝とは七つ違いということになる。子供は無かったのか喪主は兵庫県加東市花蔵院梅谷快洋住職とのこと。 彼らの結婚がいつだったか手元の資料ではわからない。三枝和子は、兵庫師範学校本科を経て、関西学院大学文学部哲学科を卒業し、同大学院文学研究科修士課程を中退。神戸と京都で
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