こうして小林の『本居宣長』は、縮めていえば、宣長の「古道の思想」をあえて感覚的にのみ徘徊できるように、宣長の源氏論にひそむ「もののあはれ」をところどころ突っ込むことによって、一個の宣長像を六曲数双屏風の絵のように一扇一扇に描いたのだ。 馬鹿でなけりゃ、こんな文章は書けねーよ。どこが馬鹿か指摘できないほど馬鹿だ。が、うんこ塗りたいわけじゃないので、言うが、古道は思想だが感覚で受容するものではない。それを言葉のなかに息づかせ感受することだ。だから、小林はくどいほど宣長の息づかいを伝えようとした。そしてその息づかいの奥にあるものに気が付かない松岡ってやつは、およそ、女で泣く人生の意味もわかっちゃいねぇよ。端的に、あえてこちとらも馬鹿っぽくいうと、『本居宣長』は長谷川泰子への鎮魂歌だよ。おっと、そう言っちまったら、まるで泰子に未練が残っていたか、みてーだが、そーじゃない。全然、そーじゃない。女で生