母の葬儀が終わり、初七日も済ませて やっと母の遺骨が久が原の実家へ戻ってきた。 二ヶ月前に骨折で入院したときに、 以後は歩行が困難になりそうだということで、 入院中に部屋を改装したのである。 半世紀住んでいた部屋の北面の壁は朽ちており、 ところどころに穴が開き、ねずみの棲家になっていた。 棚という棚には、使わない食器、なべ、ガラス器が詰め込まれており、 そのほとんどを廃棄した。 もう数年老夫婦がここで過ごしていたら、ほとんど ごみ屋敷と化していたような状態であった。 片っ端から片付けている間、 老夫婦の身体がいうことをきかなくなって、片付ける気力が 萎えていたことが知れて、なんともいえない気持ちになった。 入院一ヵ月半のところで、改装が終わり、 井戸水を汲んで、裏玄関の外で洗濯をしていた生活に 終止符を打ち、近代的なシステムキッチン、スイッチひとつで 焚ける風呂,室内の全自動洗濯機が 母親
少し前の話題だが、今年の野間文芸新人賞(受賞は村田沙耶香さん『ギンイロノウタ』)の選評で、角田光代さんがこう書いていた。 「気になったのは、(候補作のうち)多くの小説が、既にある「今とここ」を前提に書かれているように思えることだ。今とこことはつまり、現在であり、日本の都市である。書き手は、読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか。多くの小説が、「今とここ」という前提を無意識に引き受けて書かれたものに思えた。」 これに対し、村田さんの小説は、「慎重に「今」を排している。つまりいつの時代でも、どこの場所でも、共有されうる強さが小説の芯としてある」として、角田さんは推している。 同じような指摘を、選考委員の多和田葉子さん、松浦理英子さんも、表現を変えて行っているように、私には読めた。多和田さん松浦さんはまた、先行する小説をあまり読んでいないがゆえに、狂気を定型的に
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