大阪市内 天王寺からJR大和路線で一駅 「東部市場前」駅より徒歩5分。 広くはないけど、隠れ家のような クライミングジム。 初めての方にもクライミングの楽しさ面白さを 味わってもらえるように優しいルートから、 ちょっと手強いイレブンまで レベルに合わせたルートが沢山あります。 ウキウキの春、新しい趣味始めませんか? 但し、危険も伴いますので、 スタッフの指示に従えない方の入店はお断りします。
「私」について哲学できるのか? ボクが既存の「哲学」に対してどうしても違和感を感じるのは、ボク自身の問題を扱うことができないことです。現代の哲学の基礎的な方法論である現象学をつくったフッサールによれば、ふつうのボクたちの経験は「自然状態」であって、それを現象学的還元によって抽象化し、認識の枠組を研究することが哲学だということです。つまり、中味ではなく、形式、というわけです。 近代哲学の出発点とされるデカルトの「我思う故に我あり」を考えてみましょう。そのときの「我」は、このボクであるとともに、他の誰でもいい「我」なのです。どの「我」でもない「我」という奇妙なものです。それが哲学の普遍性を保証するというのです。 でも、この普遍性は行き詰ります。近代的な哲学観にもとづいて、それを分かりやすく啓蒙している方に池田晶子さんがいます。その池田さんの近著に『人生のほんとう』(トランスビュー、2006)に
私はほんとうに私なの? この前、池田晶子さんのことに触れました。そこでも書きましたように、池田さんが自分自身のことを考えようとしたら、とたんに哲学が破綻してしまうようです。どうもそのあたりに、池田さん個人の問題ではなくて、哲学そのものの問題があるのではないか、とうのがボクの考えです。 その際、それでは、単純に「ボク」とか「私」という何かが特定され、動かされない実体があるかというと、そうでもありません。ラッセルに、個体を特定して記述する記述理論というのがあります。と言っても、詳しいことは忘れてしまいましたが、要するに、個体の属性をすべて列挙すれば、個体が特定化される、というようなことだったと思います。けれども、そのように個体の属性をすべて列挙することなどできるわけもありません。 ラッセルの先駆者であるフレーゲという哲学者の理論はもっと単純で、ある特定の個体を指し示す意味はいろいろあっても、そ
保存データ ぶんまおの更新は終わりましたが、過去のデータはそのまま記録としてしばらく残します ごあいさつ1999.1.26 ちょっとしたえっせー2008 ちょっとだけ哲学してみる2007 ちょっとしたえっせー2006 ちょっとしたえっせー2005 ちょっとしたえっせー2004 ちょっとしたえっせー2003 ちょっとしたえっせー2002 ちょっとしたえっせー2001
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