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ブックマーク / outofthekitchen.blog.fc2.com (3)

  • リディア・デイヴィス『話の終わり』(1995) - キッチンに入るな

    《もしも誰かにこの小説のテーマは何かと訊ねられれば、いなくなった男の話だと私は答える。》p12 《そういう景色も気候も私には目新しかったので、熱心に観察した。》p34 大学教師であり、翻訳の仕事もしている「私」が、何年もまえに付き合って別れた男、「彼」とのあいだの話を、小説として書こうとしている。 当時の「彼」は学生で、「私」と年齢に12歳のひらきがあった。交通事故のような恋愛のはじまりから、唐突な終わりまで――その後「私」が終わりを受け入れるまで――の小さな出来事の数かずと心の動きの連なりを、できる限り正確に文章化するのが「私」の目標であるようだ。 いつ、どこで、何があったのか。起きたことを正確に描くには、周囲の様子も詳細に書き込まねばならない。どう考え、どんな感情が生じたか。昂揚、冷めた思い。うねる疑心、期待と嫉妬。「私」は当時の揺れる自分をピンセットでつまみあげ、明かりに照らしてしげ

  • 岸本佐知子『ねにもつタイプ』(文庫版、2010) - キッチンに入るな

    3年前に単行版が出てすぐに買い、繰り返し繰り返し読んで感想まで書いた(→これ)でも、文庫化にあたって「微妙に増量」したとあれば買わないわけにはいかない。 さっそく目次をながめ、どれが微妙な増量分なのか当てようとする → あきらめて巻末をめくり、追加されたタイトル(4)を確認 → それをさがして読むんだが、パラパラしている最中に目についたものも読んでしまう → その前後も読んでしまう → 結局まるまる読み返している、ということになる。そして今回も満足した。というかひれ伏した。 岸佐知子の文章は、どこがどう面白いんだろう。 この文庫に入っているものは、11の長さはほとんど同じだけど、組み立てはさまざまである。乱暴者をよそおい「これはこのパターン」と分類していっても、たとえば未読の人に面白さを伝えるうえで、あんまり意味はない気がする。ただの自己満足だ。 だからここでは、私がいちばん

  • 長嶋有『ねたあとに』の続き - キッチンに入るな

    […前回の分] たとえばある年の夏、「私」のほうが先に山荘に来て数日過ごしていたところに、コモローが到着する。 《「全然、暑くないよ」荷物を書生部屋に置くや、すぐに布団の取り込みに加わってくれたけど、コモローはやはり元気がない。 「東京(の気温のこと)?」 「そう」つまらなそうにうなずいたが、布団を両手に持つ動作は、いきなり馴染んでいる。》p201 「いきなり馴染んでいる」。まさにそうとしかいいようがないのが、その家の住人の動作である。山荘だって変わりはない。 こういう“気づき”をもたらす部分はまだまだあるから、いくらでも引用できてしまうが、いちばん「!」となったのを選ぶと、今のところはこれになる。 《トモちゃんは、やはり大きな紅茶カップではない、銀色の、ウイダーinゼリーみたいなのを飲んでいる。みたいなの、というか、ウイダーinゼリーだ。》p291 そう!ウイダーinゼリーを飲んでいる人

    tamai0911
    tamai0911 2009/03/31
    ひとつも派手な事件が起こらないのが「たまたまそうなった」のではなくて、そういうものを丁寧に取り除く作為のもとにこの小説ができているのと同じように、山荘に集う楽しいメンツも「偶然そこに居合わせた」なんて
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