《もしも誰かにこの小説のテーマは何かと訊ねられれば、いなくなった男の話だと私は答える。》p12 《そういう景色も気候も私には目新しかったので、熱心に観察した。》p34 大学教師であり、翻訳の仕事もしている「私」が、何年もまえに付き合って別れた男、「彼」とのあいだの話を、小説として書こうとしている。 当時の「彼」は学生で、「私」と年齢に12歳のひらきがあった。交通事故のような恋愛のはじまりから、唐突な終わりまで――その後「私」が終わりを受け入れるまで――の小さな出来事の数かずと心の動きの連なりを、できる限り正確に文章化するのが「私」の目標であるようだ。 いつ、どこで、何があったのか。起きたことを正確に描くには、周囲の様子も詳細に書き込まねばならない。どう考え、どんな感情が生じたか。昂揚、冷めた思い。うねる疑心、期待と嫉妬。「私」は当時の揺れる自分をピンセットでつまみあげ、明かりに照らしてしげ