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n_古谷利裕に関するtamai0911のブックマーク (2)

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●ぼくにはどうしても、自分が音楽に対して距離がある、疎遠だ、という感じがある。中高生の時は人並みに聴いたけど、それは「音楽」そのものを聞いたというよりも、ある種の精神性の象徴のようなものとして、新鮮な空気のようなものとして、それを必要としていたという感じだと思う。『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』(オリヴァー・サックス)の「失音楽症」の部分を読んでいると、ぼくにとっての「音楽の聞こえ方」に近い感じの記述があった。事故にあった音楽家の話。 ≪それなのに頭を強打して、すべてが一変したのです。絶対音感は消えました。今でも音の高さを聞き分けることはできますが、その名前と音楽空間における位置を認識することができません。たしかに聞こえますが、ある意味で、聞こえすぎるのです。すべてを等しく吸収するので、当に苦痛を感じることがあるほどです。フィルタリングシステムなしにどうやって聴けばいいのでしょう?≫

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  • 歴史的にみると... - 偽日記@はてなブログ

    歴史的にみると、どんな王道をゆくようにみえる巨匠でも、その人物が実際に現役として作品をつくっていた時には、決して安定した文脈のなかで自らの作品の正統性を保証されて作品をつくっていたわけではなく、他にも大勢居る作家の一人として、事前に確定された価値に守られることなく、自身の探求への懐疑や迷いをもちつつ、よるべない行いとして制作していたはずなのだ。つまり彼等は常に特異点として存在していたのであって、王道として存在していたわけではない。それが歴史へと回収され、事後的に文脈が整理された後から振り返ると、それがあたかも王道であり、ある種の正しさや法(象徴的な秩序)という原理に忠実であったかのようにみえてしまう。例えば、ピエロ・デラ・フランチェスカやティツィアーノやセザンヌが今観ても素晴らしくリアルなのは、西洋美術の正統な王道だからではなく、それぞれが特異点だからなのだし、グリフィスやフォードやヒッ

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    tamai0911
    tamai0911 2010/12/27
    このような文化への敵意それ自体が、ある程度の文化的な資本(の蓄積)によって可能になることは否定しようもない。文化とはあからさまに権威主義によって成り立つものなのだが、人は権威主義(つまり他者への依存や転移
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