2015年2月9日のブックマーク (4件)

  • 刀剣用語の基礎知識その2

    *樋の変遷*(「日刀研究の新道」より抜粋) 樋が掻かれ始めるのは鎌倉時代の中期です。幅広の太刀が現れ、次第に焼刃が広い、大丁子の作品が生まれて参ります。そうなると自然刀身は重量を増すので是を防ぐため樋が掻かれます。樋は俗に云う血流しでも装飾でもなくその最初の目的は専ら重量を減ずることにあったと考えられます。 というわけで、古い刀の場合樋があることだけ見ても身巾、重量が相当にあったことが考えられます。注文者の意向によって多少の差はありましょうが、原則としては、今日樋のある姿の良い細身の刀を見るのは、研減りして身幅のあった刀身が細くなったか、後世(慶長頃より)に至って形態の美観を重んじて作られたものであると思います。 樋は掻き流しが古い形式であり、次いで角止めが行われたと思われます。其れは前者の方が容易だからであります。古備前時代の古い作品には概して樋は掻き通しを施されていると思います。樋の

    tamaimai
    tamaimai 2015/02/09
    腰樋はなんのためにって調べてる
  • 『伊達政宗と日本刀』

    数日前から山でウグイスが鳴いています。だんだん 春らしくなってきました。今日は奥州の覇者、伊達政宗 の愛刀について調べてみました。 政宗も豊臣秀吉の影響を受けてか刀がとても好きだった ようです。国包(くにかね)というお抱え鍛冶を育て、一門は 十三代、幕末まで続いています。また政宗の子、二代仙台 藩主忠宗は江戸より刀の切れ味で名高い大和守安定(やまと のかみやすさだ)を呼び寄せ政宗20回忌の大脇差(宮城県 文化財)を作らせています。安定に学んだ安倫(やすとも)一門 も仙台で繁栄しています。また三代藩主綱宗は吉原での豪遊 などを理由に21歳の若さでその後50年間隠居していますが、 隠居後には和歌、書、蒔絵、刀剣に優れた才能を発揮しています。 品川藩邸で綱宗の相手鍛冶をしたのが二代安倫と言われています。 それでは伊達政宗の所用の刀を挙げてみますと、 守家(備前)、宇佐美長光(備前)、芦名兼光(備

    『伊達政宗と日本刀』
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    tamaimai 2015/02/09
  • 東京国立博物館

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    tamaimai 2015/02/09
  • 画像検索 - 東京国立博物館

    東京国立博物館では開館以来、館蔵品を中心とした文化財の写真資料を作成、収集しています。 文化財の調査研究や修理、展示などの機会に撮影された写真や、寄贈されたフィルムなどについては、 広く一般にご利用いただけるよう、デジタル化して公開・提供しています。 この画像検索では、それらの写真フィルムをデジタル化した画像およびデジタル撮影により作成された画像のうち、 東京国立博物館が所蔵する文化財の画像(約112,000枚 / 2017年3月現在)を検索することができます。 当館が保管しているその他の画像については、資料館閲覧室にて検索・閲覧が可能です。 検索結果は同時に撮影された一連の画像を一まとまりとして表示していますので、1枚のものも複数枚のものも1件として表示されます。 同じ作品について、複数回撮影が行われる場合があります。 それぞれの画像には「C0001234」のような画像番号が付されていま

    tamaimai
    tamaimai 2015/02/09
    トーハクの所蔵品ここから見られるよ◆