日常生活の中で、"オタク"というワードを耳にするとやけに敏感になり、基本的に身構える。次に発せられる言葉っていうのは大抵、前者を卑下する言葉であり、案の定僕は少なからずダメージを負う。勝手に。蚊帳の中に居る僕だから知ってる何もかもが幸福にあふれてる平和な有様を知っているけど、僕のしているこの状況を蚊帳の外に居る誰かに客観的に見られた時にそう思われるのは理解できる。ヲタってのは傲慢で自己中で盲目に見えるのかもしれないけど、少なくともハロヲタは自分達を客観視する人々らをも客観視している、非常に気にしぃで繊細でいつも誰かの気持ちを考えて行動する生き物なのです。しかし、なかなかどうしてこの力関係みたいなものは変わらない。彼らがこうあるべきだと思うそれに近付くには、このスタイルそのものを否定することから始まらなくちゃいけなくて、もはやその行為は有から無に帰すことを意味する。僕らは彼らに取り込まれるこ
どんな気持ちでヲタやってるか この子達が理解出来る訳もなく 愛って自己犠牲なんだなと改めて思う 気持ちは通じない たぶん絶対、過去、未来、いつになっても通じない 喜びは一緒だけど思いは違う 僕は標的であって仲間でない 嗣永桃子ちゃんとBerryz工房を応援するのだ/ノリオさん 『喜びは一緒だけど思いは違う』『僕は標的であって仲間でない』凄く的確な表現で、それが事実で、胸に刺さりました。 喜んでくれるならそれで十分。やっぱり少しは理解して欲しい。これ以上重荷を背負わせたくない。僕に気付いてくれませんか。 矛盾に矛盾を重ねる。 好きになればなるほど、のめり込むほどに、何も見えなくなる。なんちゃらは盲目。事実から目を背けてるだけなのかもしれないけど。 近付けば近付くほど、見えるものもある。遠目で見た時、最初は同じ目線だった。その内、目を離すことが出来ずに、体だけが吸い寄せられていく。あっという間
先日の℃-uteコンサートで「やっぱ愛理オレと付き合おうー!」って叫んでる人が居た様な気がします。やっぱって何だよと思いつつもニュアンスは分からなくも無いかな。自分の中での世界観を織り交ぜるとそういった節語出てきそうだし。 例えば最近、日常生活でふとした時に思う。 カップ麺を作ってる時。焼きそばのお湯を捨てる時に、湯気が思いの他フタを抑えてる手にクリーンヒットして、思わず手を緩めた隙に、角度が急過ぎたのも相まって、麺がこぼれるというありがちな大惨事を起こした君。思わず手で麺を戻そうとした為に火傷した指を水道で冷やしながら半泣きになってる隣で、僕は笑いながら新しいカップ麺の封を開ける。 映画を見てる時。僕のヒザの上に乗っかってるポップコーンを、逐一強奪していく右から伸びてくる手。物語が緊迫してくるとふいに手が止まる。ちらっと隣を見ると口が半開きの君。ばれるといけないので様子を見ながらチラ見を
いつもよりセンチメンタルジャニさんです。 イベントはとても面白かったです。僕の入った昼公演はレコメンの収録も兼ねていたので、行けなかった方は放送を楽しみにしていてください。ベリ史上最もと言ってもいいんじゃないかってくらいの茉麻が大活躍&素敵なやり取りの数々。ラジオの公録って、そんなに面白いイメージが今までの経験で無かったけど、みんな活き活きしてて、いよいよ℃-uteと比べても遜色無いように思えるレベルに来てるんじゃないだろうか。 お金も時間もかかったけど、凄く満足のいく代物でした。 そんな気持ちのまま、横浜を後にしました。その時点で絡んでたヲタもだちは皆さん夜公演入る感じだったので、久々に一人でゆったり帰りました。 やっぱ一人になると、いろんなことが脳内をとりまいて。 横浜駅に近付くに連れて増える人の群れ。 みんないろんな方へ早歩きしてる。当たり前だけど、それぞれが、ドラマのある色濃き人生
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