「どこに住んでいるのだね」 「四谷の鮫河橋という貧民窟です。今はメクラの男と夫婦になって、小さい子供がゴチャゴチャ5人もいるのです。アンマで暮らしを立てているのです」 「お前に姉さんがいると言ったが、その人はどうしているのかね」 「鮫河橋に一緒にいます。お母さんの手をひくために。そして、今のお父さんの子供と夫婦になっています。車夫ですが、酒のみで、バクチ打ちで、悪党なのね」 (坂口安吾『明治開化安吾捕物 時計館の秘密』) その昔、東京には数多くの貧民窟がありました。代表的なものが3カ所あって、それは下谷万年町(上野駅のそば)、芝新網町(浜松町駅のそば)、四谷鮫ケ橋(赤坂離宮のそば)です。この3カ所は江戸時代から続く大スラムで、明治30年(1897)の調査では、下谷万年町が875戸、芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の細民長屋がありました。 貧民街に住む人たちはどういう生活をして
上海でビジネスを営む、香港人の元同僚から久しぶりに電話があった。 「知ってる? 北京大学の教授がさ、香港人を『犬!』って罵ったって...」 ああ、それ、あの時は香港人が大騒ぎしてたけど、もうとっくの昔にみんな話題にもしなくなっているよ。だって、あの教授、北朝鮮政府支持者として有名で、もともと中国の知識人の間でも「変なヤツ」で通ってるからね。「あいつがまた素っ頓狂なこと言ってらぁ」ってそんな感じだよ。逆にそういう人も教授になれるってことを知って、香港人の北京大学崇拝も潰えるだろうから、かえってよかったんじゃないの? 「いや、大学教授がどうこうじゃなくて、そういう見識の大陸人がたくさん香港に流れ込むのはやっぱり問題だと思うんだよな。きっかけになったビデオの大陸観光客だって、地下鉄の中で飲食しているのを注意されて反撃してる。ああいう黒を黒と思わない大陸人はぼくも上海でたくさん見てるけど、2003
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