理由をはっきり示す資料はありませんが、一説では、美原区域を除いた堺の町名に丁目の「目」がつかないのは、江戸時代の「元和の町割り」にそのルーツがあると考えられています。 元和元年(1615年)、大阪夏の陣で全焼した堺は、徳川家康により、南北の大道筋、東西の大小路通を基軸として、碁盤の目の形に町割りされ、整然とした町に生まれ変わりました。これを元和の町割りといいます。 通称名も含めた町の数は、多いときで400近くにも及び、覚えにくいので、大道筋(南北の大通り)に面した24の町名と縦筋の通り名とを合成させた、ちょうど現在の京都のような呼び方を通称として使うようになりました。例えば、「南材木丁」を「大町中浜筋」というように。(下図参照) さらに明治5年(1872年)の町名改正では、町名をより分かりやすくするために、独立した町名のかわりに、当時の町組(ちょうぐみ=連合自治会)を生かし、2街区位に再編