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2012年2月22日のブックマーク (3件)

  • 美樹さやかは自己投影すると最高に気持ちいいキャラクターNO.1伝説で僕たちを救済するマジ女神 - The Stalking Dead

    なんか最近美樹さやかは自己投影できないキャラだという話が話題だと風の噂(てゆうかはてブ流し読み)で聞きましたので、美樹さやか厨として「美樹さやかにこういう自己投影すると最高に気持ち良いんだよ!」という話をしたいと思います。ただしキモイ。 「このままじゃダメになるだろう」って人がやはり予想通り案の定ダメになるというお話 みなさんは数千円の価値しかない浄水器や羽毛布団を一人暮らしのおばあちゃんの家にピンポンピンポン鳴らして玄関に押し入って座り込んでは何時間も粘って言葉巧みに(恫喝も泣き落としも入り乱れ)数十万円で購入させるオシゴトの経験はあるでしょうか?  いやボクはありませんけど。まあ、もしもそういうオシゴトをやったら(そして故あって簡単に辞めることが出来なかったら)と想像してみましょう。そして皆さんもボクも、それなりに良心あって、基的にご年配の方をそれなりに好いてるということにしましょう

    美樹さやかは自己投影すると最高に気持ちいいキャラクターNO.1伝説で僕たちを救済するマジ女神 - The Stalking Dead
  • 「ポスト・エヴァ」など存在しない。――『エヴァ』試論2―― - 鳥籠ノ砂

    したがって、『エヴァ』はレイとアスカの二項対立ではなく、レイとアスカとミサトとカヲルの四項対立で考えるべきである。「セカイ系」や「ポスト・エヴァ」といった枠組みさえ外せば、そうしない理由はどこにもない。 そもそも、レイとアスカが当に対立しているのかさえ怪しい。『エヴァ』を批評する者たちは、レイに「虚構」「母性」「アニメ的女性」といった属性を読み込み、アスカには「現実」「異性」「生身の女性」といった属性を読み込むと、シンジがアスカを選んだかのような結末から「現実に帰れ」「他者と向き合え」というメッセージを思い描く。これが間違っていることは、既に述べた。すなわち、シンジはアスカに「帰って」いるのではなく「逃げて」いるのであり、「生身の女性」を「他者」「現実」に結びつけることはできないのである。だいいち、「生身の女性」などといった言葉はほとんど語義矛盾と言っていい。「生身の女性」と言う時点で、

    「ポスト・エヴァ」など存在しない。――『エヴァ』試論2―― - 鳥籠ノ砂
  • 「現実に帰れ」はなぜ間違っているか。――『エヴァ』試論―― - 鳥籠ノ砂

    『新世紀エヴァンゲリオン』における最後の二話や旧劇場版は、しばしばそのメッセージを「現実に帰れ」という一言で括られがちだ。すなわち、オタクはアニメという虚構に逃げ込まずに、たとえ「気持ち悪い」としても現実を受け入れろ、萌えキャラではなくアスカのような「生身の女性」「他者」に向き合え、と。この見方は実際に監督の庵野秀明によっても語られているため、作家論としては全く正しい。私たちが「セカイ系」や「ポスト・エヴァ」といった言葉でアニメを考えるとき、上のような『エヴァ』解釈なしで済ませることはできないと思われているし、評論家の宇野常寛も『ゼロ年代の想像力』などで次のようなことを述べている。「『エヴァ』がせっかく“現実に帰れ”と説いてくれたのに、オタクはそれを受け入れずセカイ系に“逃げた”」。ともかくも『エヴァ』と「セカイ系」の関わりを論じるのが、よく言われる「ポスト・エヴァ」史観なるものの主な問題

    「現実に帰れ」はなぜ間違っているか。――『エヴァ』試論―― - 鳥籠ノ砂