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ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (6)

  • metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

    前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。あるいは、日常生活というものをいかにして再構成するか、ということである。 この日常生活の分節化の問題が、今日の非常に多くのサブカルチャー作品に見出されるということが、現在の僕の関心事である。何度も繰り返すことになるが、日常生活そのものを描くことはできないので、こうした作品において問題になっていることは、言ってみれば、日常生活における節目を発見することであるだろう。つまり、何かの終わりであると同時に何かの始まりでもあるような、そうした節目を様々なところに発見することが問題になっているのである。 現在は卒業式のシーズンであるが、卒業式というのもまた、ひとつの節

    metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って
  • ヤマカンにおける虚構の身体性の問題――『かんなぎ』から『フラクタル』へ - metamorphosis

    庵野秀明は、2006年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の制作発表にあたり、極めて挑発的な所信表明を行なった。「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」*1。この表明が意味していることとは、『エヴァ』を更新するアニメは『エヴァ』それ自体でしかありえず、「ポスト・エヴァンゲリオン」などというものは存在しない、ということだろう。ここには、アニメの現状に対する庵野秀明の認識が明確に示されていると言える。つまり、『エヴァ』以降も、非常に多くのアニメ作品が作られ、その中には斬新な試みを行なった傑作もあっただろうが、真の意味で新しいアニメ作品はなかったのである、と(もちろん、それではアニメにおける新しさとは何なのか、ということを次に問う必要があるだろうが)。 山寛(ヤマカン)は、これと似たような声明を、『フラクタル』の制作発表にあたって公表したが、ヤマカンの声明は、庵野秀明の大胆不敵な声明

    ヤマカンにおける虚構の身体性の問題――『かんなぎ』から『フラクタル』へ - metamorphosis
    tatsuzawa
    tatsuzawa 2011/02/27
  • ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について - metamorphosis

    アニメ『天体戦士サンレッド』を最後まで見た。この作品の舞台である武蔵溝ノ口には何度も足を運んだことがあったので、非常にリアルに描かれる駅前の風景などを見ているだけでも楽しめるところがあった(もちろんギャグも面白かったが)。 この作品を見ていて、地方性というものについて、いろいろと考えさせられた。単に武蔵溝ノ口という特定の地域が舞台になっていることだけに興味を持ったわけではなく、なぜそのような特定の地域をリアルに描かねばならないのか、ということをいろいろと考えさせられたのだ。グローバル社会とかグローバル資主義などという言葉が囁かれている昨今、それと歩調を合わせるかのように、ローカルなものにも焦点が当たられるという傾向が出始めているように思う。 『サンレッド』においてローカルなものの描き方が秀逸だと思うのは、正義の味方と悪の組織との闘いという大きな枠組の内部でローカルなものが提示されるのでは

    ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について - metamorphosis
  • 『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis

    最近、偶然にも、アンデルセンの『人魚姫』を現代風にアレンジした二つの作品を見たり読んだりした。ひとつは、宮崎駿の最新作『崖の上のポニョ』であり、もうひとつは、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をマンガ化した作品である(漫画:杉基イラク)。言ってみれば、これらの作品の作者は、『人魚姫』という古典的な作品から現代的なリアリティを読み取ったわけだが、いったい、この『人魚姫』という作品のどこに現代的なリアリティがあるのだろうか? アンデルセンの『人魚姫』のストーリーに忠実なのは『砂糖菓子の弾丸』のほうである。この作品では、最後、海野藻屑という名の少女が、その名の通り、海の泡になってしまう。これに対して、『ポニョ』のほうでは、ポニョが泡になることはない(つまり原作の物語の展開とは異なる)。この差異はいったい何を意味しているのだろうか? 『ポニョ』において、ポニョが海の泡になることはないが

    『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis
  • 日常系の地平としての世界の果て――『けいおん!』と対話する『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』 - metamorphosis

    『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』は2010年の1月から3月にかけて放送されたアニメ作品である。つまり、この作品は、2010年代の冒頭に出てきたのであり、「アニメノチカラ」と名づけられたアニメシリーズの最初の作品ということから考えても、何らかの形で新しいアニメの可能性を模索しようとしていたと言える。「アニメノチカラ」という言葉には、おそらく、次のような危機意識が反映されていることだろう。すなわち、現在のアニメ(特にテレビアニメ)は、それが以前持っていた可能性の多くを見失ってしまった。アニメにはもっと豊かな可能性があったはずだ。その豊かさを、アニメの力を再発見すべきだ、といったような危機意識である。 『ソラノヲト』に見出されたアニメの可能性がどのようなものであったのかということとは別に、アニメという言葉が、その一般名詞の使用法とは違って、どのような特殊な意味を持ちうるのか、具体的にどのような特定の作品傾

    日常系の地平としての世界の果て――『けいおん!』と対話する『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』 - metamorphosis
  • 『アニメルカ vol.3』に寄稿した件について - metamorphosis

    vol.2に引き続いて、vol.3にも書かせてもらいました。今回書いた文章は、「キャラクターの不定形な核――『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」というもので、タイトルに示されているように、手塚治虫論とエヴァンゲリオン論とが融合したような文章になっています。 vol.2では、「エンドレスエイト」(『涼宮ハルヒの憂』)、『かなめも』、『けいおん!』という2009年に放送されたアニメを問題にしたのですが、そこでの議論の延長線上に今回の文章があります。つまり、vol.2の文章でもキャラクターについて少し言及しているわけですが、そうしたキャラクターという観点が出てくる淵源を手塚治虫の作品と『エヴァ』とに見出すというのが今回の試みです。 今回の文章を書くにあたっての基的な発想として、『エヴァテレビ版最終二話という悪評高いエピソードを、キャラクターという観点の下で、新しく捉え直すことが

    『アニメルカ vol.3』に寄稿した件について - metamorphosis
    tatsuzawa
    tatsuzawa 2010/12/04
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