理路整然。文章うまいなー/thirteen1129 それは「嫌いだと思う人を殺せないのだから、思うままに生きられる世界はない」というのとさほど違わない。他者の自由は時に自分の自由を制限する。互いに。
ご丁寧にありがとうございます。 わたしが嫌いとする根拠が差別的であったということは指摘されて理解しました。素直に反省しています。 ただ、本来自分がそうしたいと思っている振る舞いを抑制するのは、マジョリティ・マイノリティに関係がないと思うんです。 そこをあえて「嫌い」と公言しあえることで、「嫌いな人」が多ければ抑制、少なければ自由にっていう使い分けもできると思います。 今の世の中は、「嫌い」の公言が抑止されていることで、自分の振る舞いや出で立ちを「嫌いかもしれない」という考えにかえって抑圧されてしまっていると思うのですがいかがでしょうか。 「嫌い」であることを言えない世の中より、お互いの「嫌い」という意見を許容しあえる世の中のほうが自由だと思います。 それよりも、コメントでもいくつか見られるように「嫌いと言われるのはかまわないけど、言われたら反撃する」という考えが許容されていることにどうして
増田の文章の中では、直結させちゃいけないこと、混ぜちゃいけないことが色々と混ざって、飛躍した結論を導いてるけど、社会的少数派を「(内心で)嫌う自由」と「(偏見に基づいて)嫌いだと口にする自由」は全く別のことだよ。 まず、女性的男性について。「男性なのにクネクネしていたり、男性なのに女性みたいな服装をしたりしているのはどうしても受け入れられない」。非典型的なジェンダー表現・所作を身に付けた男性がゲイだとは限らないし、ゲイがみんなそうしてるとも限らないけど、まあとにかく増田はそれを気持ち悪い、受け入れられないと思っている。で、それが「わたしが彼らを嫌いだということも認められるべきだ」と繋がる。主観として何かを気持ち悪い、受けいられないと「思う」ことと、他人(その中には当然、LGBTの人達もいるかもしれない)に向けて彼らを嫌いだと「言う」ことは全然別だ。 次に、アフリカ系の男性について。「わたし
LGBTが嫌いだと口にしたら、差別はよくないと周囲から総攻撃を食らった。 おかしい。それこそが差別ではないか。 LGBTを差別するつもりはない。存在もしているだろうし存在しないでほしいとも思わない。 しかし嫌いなものは嫌いだ。 特にゲイはどうしても好きになれない。 できれば身近にはいないでほしいし、いたとしても近づきたくはない。 別に外見でゲイとわからないならいい。 だけど、男性なのにクネクネしていたり、男性なのに女性みたいな服装をしたりしているのはどうしても受け入れられない。 もちろん存在はしていてもよい。しかし、あなたの存在が認められるのと同じで、わたしがあなたを嫌いだということも認められるべきだ。 わたしが入る学校や会社に、LGBTを禁止する規則がないなら、その中にLGBTがいても仕方ないと思う。 だけど、LGBTを禁止する規則があるなら、わたしはそういう学校や会社を選びたい。 わた
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