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ブックマーク / akimbo.hatenadiary.jp (2)

  • かぞえ歳の合理性 - コールスロー

    多静六のを読んでいて、文章が若々しいのに「もう八十六になるが…」とあるのでおどろいた。 「一体いくつまで生きたのだろう」と著者略歴を見ると、八十五歳で亡くなっていた。ありゃ。 「しっかりしているようで、歳がわからないくらいボケてたのかな、それともサバをよんでいたとか」などと失礼なことを考えながら生年を確認して謎がとけた。著者はかぞえ歳を使っているのだが、編集者は満年齢を記載しているのだ。計算すると、多静六はかぞえ八十七のときに没している。 以前は「生まれたときはひとつ、正月がくるとふたつ」というかぞえ歳の考えかたは、なんとなく不合理に感じられた。しかし先日『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービーシャー 日経BP)を読み、かならずしもそうではないということを知った。 まず、満年齢というのは、「生まれてからの時間」をあらわすものであるが、かぞえ歳は、「生後(天から)さずけられた年の個数

    かぞえ歳の合理性 - コールスロー
  • 2005-02-04

    Ardbegさんの「身辺雑記 - ardbeg1958」に掲載された記事、「[][言葉] 自戒」にちょっと長いコメント。話題としてはズレ気味なのでこちらに書きます。 わたしも小学校時代に「飲」という字を習ったときに、「に欠ける」だと思い、そう暗記していました。でも、「欠」にはもともと「かける」という意味はないんですね。 もうお読みかもしれませんが、高島俊男さんの著書『が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)の冒頭にあるエッセイ「あくび問答」に「欠」と「缺」の話があります。「欠」(ケン)と「缺」(ケツ)はもともと別の字で、「欠」はArdbegさんがお書きのとおり口をあけることです。だから「欠伸」が「口をあけて伸びをする」で、あくびなんですね。このエッセイを読むまでは、「かけて伸びる、ってなんだろう、それとも伸びにかける、かな」と不思議に思っていました。対して「缺」はかけるという意味

    2005-02-04
    tinuyama
    tinuyama 2005/03/30
    「欠」と「缺」―国語改革のシッポ
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