本多静六の本を読んでいて、文章が若々しいのに「もう八十六になるが…」とあるのでおどろいた。 「一体いくつまで生きたのだろう」と著者略歴を見ると、八十五歳で亡くなっていた。ありゃ。 「しっかりしているようで、歳がわからないくらいボケてたのかな、それともサバをよんでいたとか」などと失礼なことを考えながら生年を確認して謎がとけた。著者はかぞえ歳を使っているのだが、編集者は満年齢を記載しているのだ。計算すると、本多静六はかぞえ八十七のときに没している。 以前は「生まれたときはひとつ、正月がくるとふたつ」というかぞえ歳の考えかたは、なんとなく不合理に感じられた。しかし先日『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービーシャー 日経BP)を読み、かならずしもそうではないということを知った。 まず、満年齢というのは、「生まれてからの時間」をあらわすものであるが、かぞえ歳は、「生後(天から)さずけられた年の個数