穆公(ぼくこう)は、中国春秋時代の秦の第9代公。繆公とも記述される[1][2][3]。 生涯[編集] 徳公(第6代)の子で成公(第8代)の弟。兄弟相続により秦公となる。隣国晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるようになった。 穆公9年(紀元前651年)、晋の献公が死ぬと、後継争いで晋国内は騒乱状態となった。晋の公子夷吾は晋公の座に着くために穆公に援助を要請した。穆公は夷吾の兄の重耳の方を人格的に好んでいたが、重耳が辞退したことと、英邁の誉れ高い重耳に比べると出来の悪い夷吾を晋公に推せば何かと自分に有利になると踏んで、夷吾を晋に入れて恵公とした。この時に恵公は穆公に礼として領土の割譲を約束していた。しかし晋に入った恵公は約束を破り、晋国内で悪政を行った。 穆公13年(紀元前647年)、晋は不作になり、食糧が不足したために秦へ