大分県南海部郡大入島村(現・佐伯市)に、土建業「村上組」を経営していた村上袈裟松の長男として生まれる。1918年早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業後、飛島組(現・飛島建設)を経て、1944年、村上組の後身「大和土建」社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から出馬し当選、以後当選14回(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。党内派閥では大野伴睦派に所属する。政界入り当初は、大野に対しては良い印象は持っていなかったが、ある新聞記者が強引に大野に引き合わせたことを契機に意気投合し、昭和電工事件で大野が投獄されると神田博とともに慰めに出向き、また訴訟費用の工面などもしたようである。律儀で地道に仕事に取り組む姿勢を大野に見込まれ、第3次鳩山一郎内閣で郵政大臣、第2次岸